小説 混線
エゾゼミの機械音のような低音の鳴き声と汗ばむ肌が夏の不快感を増長する。エアコンという文明の利器は、人類に快適な暮らしを提供するが、反面、故障した時に訪れるダメージは大きい。元々そんなものが存在しなければこれほどの不快と苛立ちを感じることはなかっただろう。独身の強みで、自由に使える金は多いが、修理の日程を早める役には立たなかった。窓を全開にした診察室はその白色を基調とした静謐な外観とは裏腹に巨大で毛深い動物の体内のような野生味のある熱で満たされている。今年の夏は格別に暑く感じる。これでは患者の頭が多少おかしくなってしまっても不思議ではない。さっきの患者は、自分をエジソンの生まれ変わりだと主張していたが、この部屋のエアコン一つ修理はできなかった。
ふと気づくと、外来の受付時間を過ぎていた。予約の患者もいないし、これで店仕舞いのようだ。帰り支度を進めていると、ドアがノックされ、受付を任せている中年女性と患者だと思われる老齢の男性が入ってきた。思わず舌打ちをしそうになる。私は受付の女性に抗議の視線を向けると、彼女は怪訝な表情で肩をすくめて出て行った。私は患者に目を向ける。男の頬はこけ、体は細く、足取りには不安なものがあったが、小さな体躯に不釣り合いな大きな目がギラギラと精力的であった。私の胸に幾許かの好奇心が芽生えるのを感じる。私が軽く会釈をして椅子をすすめると男は私から目線を外さず、慎重に椅子に座る。アンティーク調の木椅子が微かに軋んだ。嫌に緊張感がある。
私はいつものように親しげな声色で話しかける。
「今日はどうなさいましたか?」
「ああ、君には私が見えるのか?」
一瞬、ギョッとする。
「え、ええ。見えていますよ。受付の者にも見えていたようですし、おそらく、誰の目にもあなたは見えているでしょう」
「そうだろうな」
なんだ。どうやら、自分は死んでいる、あるいは、自分は幽霊だ、という類の妄想患者ではないらしい。
「聞き方を間違えたかな。……君は私を認識できるようだね。どうかな。どんな風に見える?」
「はあ。これは珍しい状況ですね。まるで私の方が診察を受けているような気になってしまいます。どうでしょうか? 一度、状況を整理しましょうか」
「いや、不要だ。質問に答えたまえ」
俄然、興味が増してきた。どうやら、ありきたりの患者ではないようだ。妄想に付き合うのは禁物だが、基本姿勢として、患者に寄り添うのは定石だ。
「これは失礼しました。……そうですね。私にはあなたがはっきりと見えています。それなりに人生の経験を積まれている紳士のようですね。ただ、健康状態があまり良くないかもしれません。不調を感じられているようでしたらビタミン剤も処方しましょう」
「ふん。そうかね。……悪いが、もう一度、同じ質問に答えてくれるか?」
「はあ。それはどういった意味ですか?」
「私はどう見える?」
何だ? 記憶障害の類だろうか。
「……わかりました。えー、あなたは、若い頃に武道かスポーツを経験されているのでしょう。立派な体格をしている。肌も日に焼けて健康的です」
「そうか。そうか。それなりに離れた世界線も混じるようになったようだ。そうだな。同じ科学者として聞くが、オムレツを生卵に戻すにはどうすればいいと思う?」
「はあ……。難しい問題ですね。スーパーに行けばいいのでは?」
「はっはっは。こりゃあいい。それで、残ったオムレツはどうするね?」
「私はケチャップをかけるのが好きですね」
私の返答を聞いた後、シルクハットを被った黒人男性は車椅子を軋ませながら上機嫌で帰って行った。
「何だったんだ。まあいいか」
風が吹き開け放した窓から桜の花びらが舞い込む。春を感じて和んでいると、急にエアコンが起動した。しかも、春の陽気を台無しにするようなキンキンに冷えた風を放出している。何なんだ。私は首を傾げて、少し思いを巡らすが、全く思い当たるものがなかった。まあ、いいや。リモコンでエアコンの電源を落とす。
帰り支度をしながら、受付窓口を清掃している妻を呼ぶ。今日は結婚記念日。帰りには予約しているレストランでディナーをとる予定だ。
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