歴史と経済43〜教えること〜
教える際に大切にすべきことは何か。
それは、問題意識を持つことだろう。
通りいっぺんのことを平板に説明されても面白くない。
それよりも、物事を批判的にみて、ここにはこんな問題が潜んでいて、こんな構造になっていると言われた方が相手は聞く耳を持つだろう。
大量にある情報から教える側がとことん絞り込んで探究していくようなスタイルで教えると、実践的なことが学べるだろう。
問題意識の規模が大小さまざまある。
個人レベルでは自分がいかに儲けるか、いかに資産を築くかという話も需要があるに違いない。
この社会は個人が尊重される社会だ。
少なくとも、人類史の上でそれが人類が獲得した権利である。
自由を謳歌すべく資産を作りたい。
そこに願望を抱くのは、人間の性だ。
しかし、地方創生の規模であってもこれまた高い需要があるだろう。
今や都会への移住に負けないくらい、地方への移住にもニーズがある。
少なくともコロナ禍がそれを後押ししつつある。
地方に愛着がある人も多いだろう。
あるいは、子どもの未来を作る分野である。
たとえば、「持続可能」・「教育」・「地球環境」などはきっと多くの人が重視すべき課題だと捉えているのではないか。
これは、人間の公正的な側面が打ち出す需要であるかもしれない。
このように、人間が求めるニーズは、単に個人レベルに留まらない。
むしろ、規模を大きく見ていくと、人間が共通に持つ課題意識が顕在化する。
そこに対応して、問題を絞り込んでいくことで面白く学ぶことができるだろう。
ただし、教える側はそうはいかない。
教える側はまず大量に情報を集めることが先決である。
小さい母体の中から絞り込んでも、掘り出し物のネタは見つからない。
要素同士のつながりや論理性も希薄になるだろう。
膨大な情報の山から、共通点や一貫性を見抜くこと。
それが問題意識となる。
ここがキモだ、というところを取り上げるのだ。
そのためには、情報収集能力が必須となる。
一つどころを崇めて、絶対視するのではなく、その反対の考え方についても論点を探り出す。
複数の視点から分析し、ジレンマと対峙するからこそ問題の複雑さを認識できる。
社会問題にもなるわけだ、と納得できる。
このサクッと解決できない「もどかしさ」にこそ、取り上げる価値を見出すことができるのだ。
人間の知恵を発揮し、対話の力でどれだけ問題解決を前進させることができるだろうか。
それは教えるというより、共に「学ぶ」という方が近い感覚かもしれない。
皆それぞれが地球という空間を共有している限り、大なり小なり自分の生活周りに関心があるはずだ。
誰もが無関心でいられず、未来を心配している。
そのスケールはともかくとして、そこの部分を核心として情報を大量に漁ることで問題の構造が明確になる。
それを絞り込むことで、象徴的に、簡潔に、明快に問題を実感させる力もまた求められる。
そして、対話が前進するような優れた問いを用意し、途中経過をファシリテートせねばならない。
教えるということは、まさしくこれら全てを要求される営みだ。
その基盤となるのが、どれだけ情報収集に準備を割くことができたか、である。
それによって学びの質は白にも黒にもなるだろう。
たった一つのことを「深く」学ぶことができれば、その手法を武器に他の問題にも切り込むことができるようになるだろう。