歴史と経済9〜コミュニティ〜

巷には色んなコミュニティが溢れている。
自分の趣味に基づいたコミュニティや出会い、カリスマ性に集うなどその属性は様々だ。
人間が集まれば、人間関係が複雑でいろんな体験ができ、刺激を浴び、問題を抱えることもある。
目的に向かって先鋭化されれば、その集団は個人では達成できない目的を達成したり、情報を獲得できたりする。

うまく行けば、数は力となる。
悪く行くと、烏合の衆で終わる。

決済サービスや通信インフラが分かりやすい。

誰も使っていないSNSをやってもあまり価値はないだろう。
たくさんの人が所属していれば、それだけで力となる。
もちろん、主催者一人が魅力的ということもあるけども主催者はきっとそのフォロワーから何かしらの恩恵を受けている。

キャッシュレス決済もそうではないだろうか。

中国では、ほぼキャッシュレス化が実現しているそうだ。
QRコードを読み取るだけ(もしくは、自分のQRコードを読み取らせる)で決済が完了する。
現金を持ち歩かなくて済む。

この前提を誰が崩そうと考えたのだろう。
現金いらず。
私たちの常識はもはや無意識レベルに刷り込まれていて、疑うことすら困難だ。
なぜ、働かなくては行けないのか?
結婚という制度はなぜ、あるのか?
そういう前提を疑い、意外に単なる継承の産物だったりすることに気づくこともある。
好きなことを仕事にする。
「遊ぶように働く」なんて言葉も今では市民権を得つつある。

ベーシックインカムという制度を誰が考えたのか。
政府が国民の最低限の生活を保障してくれたら、私たちは本当に自分が好きなことに集中できるだろう。
むしろ、そこで「何をするのか」によってその人のある種の価値が決まるとも言える。
そうだ、なぜそもそも働かないといけないのか。
AIが労働を代替してくれれば、願ったり叶ったりだ。

車も所有しなくて済む。
車は車検や自動車税だガソリン代だ、といろんな諸経費がかかるのだから。
それらを誰かが負担してくれて、なおかつ必要時に即来てくれさえすれば所有する必要性はない。
自動運転によって車はいつでも必要な時に、私たちを出迎え、目的地まで連れて行ってくれる。
移動時間も何もする必要がない。
自分の可処分の時間となる。
さあ、どうする?
何でもできるようになった。
逆に、時間を持て余すかな?

音楽や動画も同様で、こちらは実現している。
この10年間で目まぐるしく社会は変化したものだ。

しかし、こういうことを考えたり、実現できるのもやはりマンパワーの恩恵ではないか。

集団があるだけで、この広い世界を効率的に移動できる。
情報や商品がスムーズに伝わり、運ばれる。
私たちが寝ている間に誰かが働いてくれている。
そこに代わりの人間がいる。
もしくは、これからは代わりの機械がいてくれるから。

歴史的に考えてみる。

最近は、私は華僑と印僑について調べている。
彼らは商品として日本の阪神圏の中小企業の雑貨や化学製品などを扱った。
売れ筋を見込み、商品の差別化を図り、商人としての手腕やタフさがある。
もちろん、日本の三井物産などの大手企業は大規模な取引をする。
しかし、印僑は文化面を織り込んだ文物を結びつけた、宗教的な商品を取り扱い、小口の取引きをして生き残ってきた。
華僑は故郷への送金手段を堅持した。
政治的な障壁も何とかして乗り越えてしまう。
それも個人ではどうしようもできない規模で。
人間同士のつながりだからこそ、知恵が出てきて解決する方法が見つかる。
誰かのアイデアが一般化して浸透した時、一庶民が簡単にそのサービスを利用できるようになる。
それがコミュニティのメリットなのかもしれない。
現代もこの原理は働いている。
日々、人間同士の発見は生かされる。

私たちの生活はそうやって少しずつ進歩し、少しずつわがままが通る生活が実現していく。
一昔前では、考えることすらできなかった超絶自由を手にすることも夢ではなくなる。

人間が新しい自由を思いつく限りこの連鎖は止まらず、古い習慣や常識、法が淘汰されていく。

ゆえに、集団を築くことはそれ自体が力になる。
そこに天才的な思考法や社会条件が必要なことももちろんある。
知恵や知識を結集できるかも重要だ。

今のように、個人による発信が全盛となりつつあり、テレビ局も商品販売も文章投稿も自由にでき、Amazonよりも安い商品をメルカリで見つけたり、知名度はないけれど素晴らしい知恵を持った個人と出会うことも可能だ。

こうして、一人ひとりに「本当の価値」が求められるようになった。
こんな社会だからこそ、みんなで社会をデザインしてもっとみんなで一緒に自由で豊かになっていくべきなのかもしれない。
そこに知恵を投入する時代がやってきたのだ。

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