歴史と経済22〜軽工業〜

戦前、阪神工業地帯は日本最大の出荷額であった。
戦前といっても、明治時代は今の日本とは稼ぎ頭が違う。
今は、トヨタの自動車などが真っ先に頭に浮かぶかもしれない。

当時、日本の商売のメインは「糸」だったというから驚きだ。
糸と言っても、蚕の繭から取る「生糸」と綿花から撚る「綿糸」がある。
大雑把に言うと、前者が製糸業であり、後者が紡績業とされる。
特に、綿糸はインド産と激しく争った。

紡績業は神戸や大阪でさかんであった。
大阪紡績会社では昼夜二交代制で運営され、労働時間は14時間以上にもわたり、深夜にも及んだ。
しかも、その労働を担ったのが若い女性だというから、想像を絶する。
綿糸の場合は、低価格で競争を展開せねばならず、安い人件費で勝負する必要があった。
この激しいデッドヒートを日本は制し、インドとの競争に打ち勝つことができた。
日本は中国や朝鮮に大量に綿糸を輸出(移出)したのだ。

一方、生糸は長野県や関東を中心に生産され、熟練した技を要し、時間帯に関しても自然光を頼りに作業をしていた工場が多く、労働が夜間にまで及ぶことは少なかった。
日本の生糸の質は高く、アメリカへと輸出された。
1909年には生糸の輸出量は中国を抜き、世界第1位となった。

戦前において、日本が機械を生産して、他国に売りつけるほどの国際競争力はまだ無かった。
だからといって、馬鹿にしたものではない。
世界で初めて産業革命を達成したイギリスにおいても、最初は綿織物の輸出で勝負していたのだから。

むしろ、日本が外貨を稼ぎ、戦争を遂行できたのも「女工」と言われる女性の工場労働者のおかげだ。
彼女たちはハードワークと引きかえに、当時不治の病とされていた「肺結核」にかかることも多く、帰郷して亡くなることも珍しくなかった。
労働環境が主な原因とされており、当時は帰郷して治療といっても、ほとんどが自己の免疫力に依存する時代であった。

日本が遅ればせながらも近代化を成し遂げ、何とか世界と貿易を続けていけたのも、どこかの農村の娘さんの死力を尽くした労働の上にあったと気づけば、当時の日本の社会について興味が生まれて来ようものである。

犠牲があり、成長があり、戦争があった。
ここを知ることは日本の戦前の躍進の影の部分を知ることにつながる。

現在の日本が自然に出来上がったわけではないことに気付けるだろう。

参考文献『人口と健康の世界史』

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