フリーインプロの抱える問題点②:個人と政治

前回は自由と平等の話、ジャンル周りの話でした。

今回は個人とそこからつながる政治の話をしようかなと思います。

個人について

前回は何かを受け取ることに関して個人の資質が大きいと書きましたが、その上で反対に出力側の話で「個の表現」のようなのも多く見ることができます。
個人というのもまた厄介な問題かなと思っておりまして、そもそも個人とはなんぞやという話です。
この辺りも哲学の話になりますが、西洋では2500年以上積み重ねた大仰な論理展開があり、そのあたり勉強してないとここを抑えるのが難しいのかなと思います。

自分にもお気に入りの個人があり、他の言うお気に入りの個人がありここにはいろんなパターンがあります。

また、そもそも論としてその人が個人的な表現をするのであればフリーや即興でなくても良いのでは?というのも感じます。
手法として即興を取る必要がそこまでないような、あるような、、
個人的には演劇とかある程度の抽象的なものであれ、フリーや即興と同じく複合的に色々できますし、鑑賞者もわかりやすいし適任かなと思ってしまったりはします。

あとよく言われるのは個人の感情的な、想いを伝えるのようなのも大きい派閥で、こういうのは簡単に言えばロマン主義、美術史勉強してれば大体何かはわかるとは思いますが、過去によく行われた手法であり、その中にも即興が出てくるのでそういう意味合いではいいのかなとは思いますが、、
これもカテゴライズの話だと思いますが、ロマン主義自体はコンテンポラリーアート(現代美術)というよりモダンアート(近代美術)に属するものでそこをどう上手く扱うか、ですね。
ロマン主義の拡張路線が成功したらコンテンポラリーっぽくなるのかなと。

個人的にはステージに立つ人たちの全てのしがらみをまっさらにした状態でそこから始める、という方のが面白い方向に動いていけるのではないかとは思っており、自分がもし場を開くのであればこっちでやりますね。
とはいえ中に入った人たちがしがらみを出し出すと言うのは人間なのである程度は仕方ないのではあるのかなとは思いますが、、

そう言った意味で、前述の個人の受け取り感度の差異が絡んでくるので、個人的にはそこも悩むところではあります。

フリーインプロとは何なのか

こうしたことを踏まえていき、大きく見るとフリーインプロは実際に扱う音や踊りなどのもの以外が大きく作用する手法だと言うのがわかってきました。

それが何かというと自分が思っているのは政治というやつです。

誰かが率先して何かをやればその人についていく。
誰かしらがルーパーを使ったらシステム構築され出し周りがついていく。
誰かが何もしなければその場も動かない。
すごいと言われる人がいればみんなそれに付随して引っ込む。

等、即興自体は手法ではあるものの、その中に含まれるとその中に含まれた個人の取る手法は政治のツール化してそこに自由が与えられるのではという推測です。

即興とはその場内にある中で行うステージの上での剥き出しの政治ではないかという話になります。



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