見出し画像

ボロアパートで生まれ育った幼少期

イマのアタシの活動のメインは、
手相観(てそうみ)を通してのカウンセリング。

目の前のクライアントさまへ
手からのメッセージ、魂のカタチを伝えている。

手相観として独立してから今年で13年目になる。
その間出会った方(手)は1万人を軽く超えている。

この仕事は アタシの魂のテーマに沿っていると感じている。
それを、光と表現するなら、
一体、いつ、闇から光へと転じたのだろう?

そんなコトを思いながら、
今のアタシの土台となっている
コレマデのアタシの人生、
いわゆる個人=闇の部分を残しておこうとハジメタこのnote。

今日はナニから 書こうかな。

☆☆☆

アタシの両親は、どちらも秋田県出身。
父から聞いたハナシによると、
母と結婚する経緯には、想像を超えるドえらいドラマがあって、
籍をいれるとすぐに、バタバタと荷物をまとめて秋田をフタリで飛び出したそうだ。

(父からは、想像を超えるドラマの詳細は聞いていない。アタシが2児の母親になった頃、遊びにいった秋田の母の妹の家の縁側で、母の妹から聞いて知った。その内容は、一緒にハナシを聞いていたアタシの姉を突発性難聴にするほどの衝撃だったけれど、コレもいつか、書くのかな)

今から60年ほど前。
フタリは、とにかく秋田を離れて、東京に行って仕事を探そうと、電車を乗り継いでいた。
東京に向かう途中の電車の窓から赤城山が見えた。
父は
「国定忠治の赤城山だ!」
と思い、そのまま 母と一緒に群馬で電車を降りてしまったそうだ。

それから、フタリは群馬で仕事を探し、アタシは群馬で生まれ、ココに至る。

・・・らしい。


思いつきで群馬県前橋市に住み着いた後、身寄りのないフタリは、
葬儀や仏壇を取り扱う会社で仕事を見つけた。
その社長さんにフタリは良くしてもらっていて、その会社の社長宅の横のボロいアパートの2階に住み始めた。
そこでアタシは生まれ、幼稚園まで住んでいたので、外に出ないとトイレに行けないコトや、近所の長屋の夫婦が飼う犬が好きだったコトを、うっすら覚えている。

豪快な社長夫婦が経営していた会社だったことも、覚えている。
父が、社長や社員たちと夜になるとマージャンを始めるか飲みに出かけていく印象は残っている。
週に数回、近所の長屋の夫婦の家に預けられていた記憶はあるので、父も母も出張が多かったのだと思う。

このボロアパートでの記憶を掘り起こして出てきたのが、
クリスマスの夜、サンタからのプレゼントを楽しみにして目が覚めた際、枕元の包みをあけて出てきた手編みの赤いマフラーに、心底がっかりしたコトと、母が飲みに出かける時に、一緒に行く!と駄々をこねたら、柱に着物の紐で縛り付けられて、なんとかそれを解き、ダイヤル式の電話で社長夫人に泣きながら電話して、駆け付けてくれた社長夫人がくれた、小さな東京タワーのキーホルダーが嬉しかったコトと、長屋に預けられた時に、出張に出かける母を見送りながら、涙が流れるのを我慢して、歯を食いしばった時、周りのオトナに「偉いぞ!強いぞ!」と褒められたコト。

不思議だけど、この3つが、映像で出てきた。


高度成長期後半に生まれたアタシ。
イマになって幼少期の頃を振り返ると、すべてのオトナたちは、外へ外へ、毎日戦いに出かけるように生きているんだと、アタシの目には映っていた。

とにかく、両親と家で過ごした記憶が皆無なので驚いた。


幼稚園でアタシは、2度ほど転園することになる。
そのたびに、大きな家に住むようになっていく。

3歳か4歳で、このボロアパートを離れたというコトだね。
だから、ここまでの記憶がうっすらとしか残っていない。

余談だけど、手相観をしてから出会ったお客様と、何故か、アタシが生まれた頃のハナシになったコトがあった。
そのお客様曰く、親せきのオジサンが、その長屋に住んでいたので、よく、遊びに行っては、近所の子たちと遊んでいた!というのだ。
後日、そのお客様が古いアルバムを探したら、写真があった!と、持ってきてくれた。
そこには、幼い頃のそのお客様とオジサン、そして3歳のアタシとアタシの5歳の姉が並んで写っていた。
写真の裏には、子どものつたない字で「よしみちゃん」と書かれていた。
3枚ほど見せてもらった写真の中の3歳のアタシはどれも無表情だった。


書くほどに、幼少期のことを思い出していく。
オモシロイ。

つづく。

いいなと思ったら応援しよう!