弟に自分の手を引かせてしまった日のこと
言葉にしてしまえばあまりにもあっけなくて、自分の苦しみ悩みの矮小さにうんざりする。人から可哀想だと思ってもらえる可能性にまだみっともなくしがみついているから。
夏の帰省のさなか。祭の日。家族での外食からの帰り際、弟が打ち上げ花火を見たいと言い出した。嫌がる母と弟との交渉の末、弟が暫く祭を見たあとに母が車で迎えに来ることになったらしい。人ごみに弟が一人で混じることを勝手に心配したわたしは彼について行くことにした。
人の流れを縫って屋台などを見ているうち、人ごみに少し気が滅入りはじめた。ただ勝手についてきた手前、弟の前では縁日を楽しむふりをするのが筋だろう。そう判断した。いつもより少し高い声で話した。謝罪の意も込めて、弟が選び、わたしがお金を出して母への手土産を買った。歩みを進める中わたしの体調は確実に悪化していた。祭だけに気が滅入ったわけではない。ここ最近心中に積もり積もった些細なあれこれを抑えていた蓋が、人ごみと花火で決壊したのだろう。結局過呼吸になり、挙句の果てには泣きだしてしまった。弟に頼んで手首を掴ませて、母の待つ駐車場まで連れて行ってもらった。途中で何度か転んだ。一度座り込んで休憩させてもらった。母の運転する車までたどり着いた。助手席でわんわん泣いて帰った。いま、花火の音を窓ガラス越しに聞きながらこの段落を打っている。花火の打ちあがる音がするごとに気管を握りしめられるような気がして苦しい。
自分の何がダメだったのか(何がダメだと自分で思っているのか)、自分のなかで何が起こったのか知るための助力にしようとこの文章を打っている。
まずわたしの振舞で誰に迷惑をかけてしまったのか。(迷惑をかけたと勝手に思っていることも往々にしてあるが)(というか迷惑だとか優しさだとかは得てしてそういったものかもしれない)第一に家族。弟ひとりだったら祭をゆっくり楽しめただろうに、わたしが勝手についていったせいで迷惑をかけた。先ほど弟に謝られてしまった。彼が私の事に関して罪悪感を抱く必要はなかったのに。母にも迷惑をかけた。帰りの車中で母に「今日の分の薬は飲んだの?」という質問をさせてしまった。薬に頼るような娘で情けないとまた涙が出てきた。
第二に友人のこと。ちょうど同じ祭に来ている友人に会いたかったのだが、結局会えずじまいだったうえに、泣き止んでようやく文字が打てるようになったタイミングで中途半端なメッセージを送ってしまった。この文章を打ち終えたら通知を確認しようと思う。でも正直なにを伝えればいいかわからない。適当に理由をつけて謝るべきなのか正直に話すのが誠実なのか。いつもこういったところで迷って後悔する。その相手に関しては、最近いろいろあってひとめ会いたかっただけだったのに、帰り際には、他の人と楽しく過ごしているんだろうなとか、今回のことを正直に話したらわたしとでは楽しい時間を過ごせないことがばれて、これから遊んでくれなくなるんだろうなとか、嫉妬と根拠のない妄想が取って代わって、そんな自分が気持ち悪くて消えたくなった。
丸山真男が「「である」ことと「する」こと」という、こうして紹介するまでもないほど有名な論文を書いていたが、あれは政体だけでなく人間関係にも援用できると思う。人間関係は各々の勝手な思い込みでしかないから。だから人間関係も放っておいたらどんどん廃れていくし、関係を保ったり変えたりするためには「する」ことが必要だ。中途半端に一般化すると逃げているみたいで格好悪いから言い直すと、少なくともわたしは、基本的に「する」ことなしには人間関係を信じられない。(これはときに、相手にも「する」ことを要求してしまうことを含む)一方でわたしは相当気の置けない仲にならないと(つまり、気の置けない仲になったと自分が思い込まないと)自分から人に連絡できない。そのくせ人から連絡がないと寂しいし置いて行かれた気持ちになるので、人間関係において頻繁にこの強大な自家撞着にぶち当たる。
話がそれた。迷惑をかけてしまった彼らへの謝罪の意味もこめて自分のなにがいけなかったのか考えてみると、自分の許容量を見極められなかったということにつきる。
そもそも祭に行くことが苦手だ。祭自体は大好きだし、行き交う人々も縁日も花火も神輿も綺麗で胸が高鳴るのだが、祭に行くことは苦手だ。理由はいままでことあるごとにあれこれ考えたけれど、自分でもまだよくわからない。祭りを楽しめる人に迎合できないからとか、終わるのが悲しいからとか、どの原因もしっくりこないのだが、とにかく悲しくなる。
屋台が楽しいね、花火が綺麗だね、といってなんとなく歩き疲れて帰ってぐっすり眠って、それでいいはずなのに。苦手なら近寄らなければいいだけなのに。どうして大人しくしていられないのだろう?どうしてこの歳になって弟に腕を引かせて、車に揺られながら泣かなければならないのか。情けない。格好悪い。わたしのダメなところや悩みや考えは言葉にすればこんなにもあっけなくてくだらないのに、なぜこんなにくだらないことすらうまくできないんだろう。生まれてこなければよかったな、と強く強く思ったら腕がむずむずしだした。腕をめちゃくちゃに切りたくなった。でも切らなかった。大人だから。深く絶望するごっこ遊びに心の底から興じられるほど自分は不幸ではないと知っているから。
するとそこに残っているのはただ惨めなわたしだけだった。
どうして祭が苦手なのかはわからないが、大好きな祭りを純粋に楽しめる人間になれないことが悔しいという思いが別個にあるのだろう。友人や恋人と祭を楽しんで大切な思い出を作りたいのに、他のみんなはそれができるのに、そこにはわたしがいないから。そうやってみんながわたしのいないところで関係を深めているのがただ淋しいだけ。人間が嫌いなくせに人に依存している自分が気持ち悪い。
ではどうして苦手な祭にわざわざでかけたのか。単に油断したからだ。数年前はよく人ごみで倒れていたのだが、最近は混みあった場所もだいぶ平気になっていた。それで油断した。今回こそ普通に祭を歩けるかもしれない。弟が心配だったというのが主たる理由だが、そんな理由でもないと祭で自分を試す機会もないという打算的な思惑がなかったとは言い切れない。要するに自分に対する期待が自分によって裏切られたことが悲しいのだ。
こんなシンプルな理由に落とし込むことのできない複合要因が胸中にあるという確信もあるけれど、さっきまでと比べてずいぶん落ち着いてきた。良い調子だ。
さっきまでは、苦しいばかりで意識があることに耐えられず、とにかく腕を切りそうになった。ここのところずっと我慢できていたのに、そわそわして堪らなくなって今度こそ腕を切りそうだったから、気を紛らわせるために家じゅうを早足で歩きまわった。大して広くない家なのですぐ弟に遭遇した。当然引かれた。「ど、どうしたの」「じっとしてると腕を切りそうだから歩いてるの!!」この短い会話でずいぶん気が楽になった。恐らく具体的な不安に限るが(解釈の余地がある抽象的な不安となるとうまく言語化できず苦しいので)、口頭コミュニケーションの俎上に自分がいままさに感じている不安を乗せることで少し問題が矮小化されると気づいた。心配して欲しいとかではなく、相手に届けばそれでいい。相手からすればいい迷惑だが。ちなみに弟は「外に連れ出した(←嘘。わたしが勝手について行った)俺が言えることじゃないけど、切らない方がいいですよ。落ち着いてください」と言ってくれた。姉に似ず優しい子なのである。
気づきを得たのはいいが、直後、将来誰かと一緒に住むことになりでもしたらこれをその相手にもやってしまうんだろうかと不安になった。家族だからいい、他人はだめというのも勝手な話だが直感的にこう思った。ここまできたらいつもの勝手で最悪な妄想で、つまるところ頭の暴走だ。
とりあえずいまのところの最後の胸のつかえとして、こういった病み事を全部ぶちまけて助けてくださいと醜態をさらしたい相手がいるのだが頼れないという悩みを吐き出して終わろうと思う。その人とは普段から何気ない事で連絡をしてもいい関係性のはずなのに、駆け込み寺にしてもいいよと言ってくれたのに、うまくできない。そもそも普段から楽しい話題や利益を提供できていないのに、こういう時だけ頼るって甘えすぎだろうと思ってしまう。でも頼りたい。できない。頼ったところでうまくできなくてもやもやして終わるのがオチだ。では普段から楽しい話をしておけばよいという話になるのだろうが、前述の通りわたしは致命的に人と連絡を取るのが苦手で、毎日のように連絡を取ろうとしては、わたしから連絡が来たら嫌だろうなとか今回はやめておこうとか言い訳を重ねて保留してしまう。相手からほとんど連絡がこない以上、そしてわたしが人間関係を「する」ことと捉えている以上、このままではこの関係も終りに向かうに決まっているのに。ハヌマーンの「幸福のしっぽ」という曲に、「愛していたような/不安の捌け口にしていたような」という歌詞があるが、これがずっと心にのしかかっている。不安の捌け口にはしたくない。もっと健全で、持続的な関係が良いのに。これも勝手にわたしが相手の迷惑を想像しているだけで、なにも思い悩む必要はない(必要/不必要という客観的な判断ができない以上この表現は好きじゃないんだけど)のだろう。もう、助けてくれ。他者の助けが要らない精神状態が理想だけど、わたしにはとうぶん無理そうだから助けてくれ。わたしが他人に頼れる万全の状態をお膳立てしてくれ。
とりあえず、覚えておけたことは、書ける範囲で書けた気がする。きょうはもうさっさと寝てしまいたいが、どうせ不安と後悔でまた眠れないのだろう。この文章は体裁を整えて後日公開すると思う。この、文章を公開するという行為にも自分の気持ち悪さを見出してしまう。考えをまとめるだけなら現物のノートにでも書き出せばそれで済むはずなのに、手が頭に追いつかずたくさんの思考が取りこぼされて生半可な文章しか出来上がらないのだから、黙っているほうがましなはずなのに。このnoteやTwitterの鍵垢などという場をわざわざ設けているのはきっと、ひょっとしたら自分という人間にはコンテンツ的な面白さがあるのではないか、だとしたらこれを消費してくれとか、あわよくば可哀想とか思って優しくしてくれる人がいるんじゃないかとかそういう願望があるからだ。
気持ち悪い。
自覚したところで改めるわけでもなく、どうせわたしは性懲りもなくいそいそと記事の体裁を整えて公開ボタンを押してしまうのだろうが。
ちなみにヘッダーの画像は地元の写真じゃないです。