どこですかここは
自分から外へ出て行かれない。
相対的にしか相手と同じ立場に立てない。
にんげんは頭の中に全員違う機構を持っているかもしれない。
だとすれば比較にすら意味はない。
自分よりも外へ出て行けないことは嫌じゃない。なぜならそれは自分という器が堅牢であることの裏返しだから。わたしは自分という単位や個人という単位を重視する傾向があるからそれ自体はべつに苦しい事じゃない。この意味でわたしは至極近代的な人間かもしれない。
結局わたしはいつだって自分についてしか話さないし自分のことしかわからない。こんな当たり前のことをことさらに書いてしまうほどの苦しみがずっとずっと拭えなくて頭が勝手に動く間は休まずに考え続けなきゃいけない。いっつも自分が自分が自分がってそればっかり苦しくてそれ以外のことってわりとどうでもいいのかしら?
最近は、珍しくずっと怒っている。個別の事象に対してではなく、機構や構造みたいなはっきりとした責任や意思決定の所在がないものに対して怒っている。(名指さんとする対象に直接は関係ないけど似たような構造に関する丸山真男の有名な論文があった気がする。でも忘れた。わたしはほんとうにすぐものを忘れる。学習というものがいつまでたっても完遂しない。とりわけ矯正に関しては理解と実行、習慣化までに長い過程があるのでくるしい)心当たりのある人は、まあいないと思いますが、いますぐその思い上がりを捨ててほしいとおもう。不愉快だから。それが嬉しいものでも悲しいものでも誰かのせいで心を乱されている状態が嫌い。そのように認識されることもきらい。
個別の作品に関して感想を言えたためしがない。個別の作品に関して感想を言うのはすごくむずかしい。すぐにいろいろなこと、たとえば他の物語や、自分の経験や、そういったことをすぐ結び付けて考えてしまうので誰かと感想を交換するとき、満足のいくように言語化できたことがない。インターテクスチュアリティとかそういった特性のもうひとつ階層のちがうところになにか無秩序な連想の管みたいなものがあってそれらが働いているあいだわたしはずっとくるしい。
感想に限らずいつも乱暴な連想をはたらかせたり、結びつきを勝手に作り出したりしてしまうので苦しい。頭のなかでよく迷子になる。気づいたらいつも、出発点から遠く離れてなにかちがうことに関して考えている。人と作品を結び付けてしまうことがとりわけ苦しい。誰かに借りた本や誰かに教えてもらった音楽、果ては作品から勝手に連想した誰かや何かの印象について、その作品を想起した時にその誰かの印象がしつこくしつこくついて回る。わたしはいつになったらひとりの時間を手に入れられるんだろう?特定の誰かの手垢のついたものはいやだ、きたない。誰彼かまわず触れられたあとのもののほうがよっぽどましだ。
どうして人の印象が問題になるかというとわたしが人間というものを根柢のところでなんとなく嫌っているからでこれもすごく悲しい。好きな人は好きだし苦手な人は苦手なんだけど、それとは別個に違うところで嫌いという印象みたいなものがある。大好きなのにかなしい。
人間のどこがいやですかといわれれば、乱暴な一般化がゆるされるのならたくさん言える。個人ではやさしい顔をしているのに集団になったとたん加害性を帯びるところが嫌い。人のまじめを笑うところが嫌い。かかわりかたで見え方も変わってくるところが怖い。目が嫌い。匂いと音が嫌い。生きているところもきらい。言葉が通じないのに主体みたいなものを持っていそうなところがきらい。
こういうことを言うとはいあなたは寂しいんですね、とうなづかれ、わたしがその人のなかでなにかの形をもち、はいあなたは理解しましたと放り投げられるような気がして、そういう想像をすると地団太を踏みたくなる。
環境としての人間もそうだけど、それならまだ手に負えるけど、個人として現前されたとたんこまる。関わらなきゃいけないコミュニティで前者と後者が複合していると泡を吹いて倒れそうになる。
いまもちょっと外に出ればたくさんの身体が氾濫しているのだろうと思うと一歩も外に出たくない。雨に降りこめられた屋内でひとりでいたい。
ごくまれに本当の意味で(わたしが本当らしいと勘違いしている限りで、という意味)大好きだと胸を張って言える人間を、思い返せば人間扱いしていないことが往々にあって、そういうことにきづくたびわたしは身勝手なままでしか自分を満たせないんだなあと思う。
こうやって人のいやなところばっかり見るようにすれば寂しくない。
あなたを愛しています。
大好きな台詞だってこういう気分になりでもしないと吐けないから。