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【レビュー】LIVE 73 女性差別の起源
2025年2月2日に行ったLIVE 73 女性差別の起源の参加者による感想です。
とても面白かったです。今日のお話でいくと、クニの最小単位は「家族」などではなく、「へ」ということになりますね。近代に「へ」から「個人」になったと思いますが。
父権制から家庭制へ移行する過程が唐突でした。移行の過程に様々な理由があったでしょうが、そのひとつに、集団的婚姻ではその子の父親が誰なのか不明という点があると思います。父権制と後継者問題が相まって、自分の子どもを産ませる場所が「家庭」で、産ませる人が「妻」になってしまったと想像しました。特定の女性を囲って所有物にしたかったのですね。
一方女性にとって、子どもの父親が誰であるかはそれほど重要では無かったでしょう。自分の子どもである事は明確に分かるし、もし重要であればプナルア婚や集団婚はしなかったでしょうから。
農耕や男女の身体的特徴から母権制が取られたのは大納得でした。現在より頻繁に妊娠・出産を繰り返し、生殖可能な年齢の女性は妊娠中か授乳中だったとしたら、農耕や政治・工業を女性が管理するのは当然でしょう。東南アジアや沖縄で市場の店主が女性で、それが本来の形というのもなるほど、と思いました。
権力闘争や侵略以外のやる事を見つけられたら良かったですね、男性の皆さん!男性陣は明確に自分の子どもを産ませたいという思惑から(?)「家庭」制度を作ったものの、却ってこの「家庭」制度により苦しんでいる男性もいる(いた)のでは?通婚・自由婚の方が男女お互い楽で、世界も平和だったかもしれません。で、貞節って何?美味しいの? ありがとうございました。
今日も大変興味深いお話をありがとうございました。
子供の頃から女性は奴隷役だと気付いていたので、そこに貶められるまいと逃げるように生きてきたわけですが、奴隷役を必要とする男性中心の社会構造について改めて考えねばと思いました。「奴隷」を得られなかった「無敵の人」の暴走、犯罪についても。
普段のよしさんの勢いがなかったので、続編があったらもう一歩踏み込んだ話が聞けるのではないかと思いました。ご存じなかった分野を楽しみながら興味深く読まれていることはとても分かりました。ヒトが農耕を始めて女性中心の母系社会が合理的だったようですが、そののちに男系社会への変化も気になるところです。
高群が書いた時代から何十年も経ちますが、今も社会は変わっていないのではないかと感じました。話を聞きながら、高校時代の家庭科の教科書を思い出しました。当時でさえ、時代錯誤と思われる「会議室で男性と一緒の時はドアを開けておきましょう」などということが書かれていて、あまりに滑稽だったので捨てずに取っておきました。将来ネタになると思ったのですが、全くネタにならない、なんなら若い世代にその注意を促さなければならない社会になってしまっていることをぼんやりと考えていました。押し入れの段ボール箱にまだ入っているはずです。
【1】
母権社会ではホームの概念が無く、群婚や通い込んで満足、子供は群や氏族が保証していたというくだりがとても面白かった。
今もそうであれば、出生率はもっと上がるのではないか。
また、ホームの概念のない世界では永遠の愛という呪いから解き放たれる事も出来る。夫婦は相手を所有し、所有されることも無くなり、不貞だの不倫という概念も無い。
生物学的には特定の異性に特別な感情を持つのは3年と言われているので、そっちの方が自然な人間関係に思える(恋愛時に活発になる脳の部分を調べると、関係3年以上のカップルのそれは無反応になる、という実験結果がある)。
子供にとって実の親が変わることは無いが、父権社会で核家族単位の育児を行うと親が離別した時に母親に負担がかかる事になるから、ホームの概念を取り払って社会全体で子供を育てる方が良い気がする。※タヒチでは「ファアム」という制度があり、実親以外の人間が子育てに参加しており、それがうまくいっている。
【2】
腕力があり、身体的能力が優っている個体の方が権力を持つのは自然の摂理なんだろうか?ちょっと調べたらチンパンジーは父権社会、ボノボは母権社会だった。他の動物にも興味あり。
今日家の中でこけて腰を打って痛いので難しい事が考えられません。
感想にならなくてすいません。
色々考えさせられる話でした。
腕力が男女とも同じくらいで、子供を産むことが両性とも可能なら多分女性差別は起こらなかったでしょうね。 また次の勉強会を楽しみにしています。
ありがとうございました。
久しぶりのライブ参加でした、ありがとうございました。
高群逸枝さんについてのよしログさんの告知文を拝見したあとに、青空文庫で彼女の作品を読みました。女性史研究というものはどういうものなのか全くわからないまま読んでみて、彼女が歴史だけでなく様々な分野の資料を読み考察していることにとても驚き、その一つの作品だけでは知りえない彼女の活動や思想に関することをライブで聞いてみたいと思って参加しました。
ライブから私がひろったことのひとつは、ボーヴォワールでした。翌日からボーヴォワールについての動画をいくつか観て、彼女について書かれたオンライン上のものをいくつか読みました。とても興味深かったです。ボーヴォワールの、「人は女に生まれるのではない、女になるのだ」という言葉になるほどと思ったけれど、妻や母というロールを人生に加える人もいれば加えない人もいるし、たしかに体の変化が男性に比べて多いけれど、とても西洋的だなあと感じました。
日本という”クニ“の中にいる女性と、他の”クニ“の歴史や文化の中にいる女性は、少し違った方法で眺めてみることも必要な気がしました。
そんな時にたまたま、心理学者の河合隼雄さんが源氏物語について講演した動画を観ました。源氏物語を執筆する紫式部の心理を曼荼羅にみたてて分析されていて、「女性が“私”というものを考える時、ある男性との関係で自分をみるのが言いやすい」と仰っていました。
誰かの娘である自分、誰かの妻である自分、誰かの母である自分、誰かの思われ人である自分、という関係性から、自分とは何者かと考えるという事を女性はするのではないか、という河合さんの視点がとても心に残りました。
最後に、浮舟という登場人物を通して、「個としての女性と、個としての男性がどのように関わっていくのか」、という、これからの日本人女性のテーマとなるだろうということを投げかけられていました。
ライブの資料でも強調されていた、「一個人の男が自己の所有物としての妻子を従えることで成り立つ生活組織、すなわち家または家庭というもの」。
「男性の単純で主導的にみえる性機関、女性の複雑で受動的とされる性機能の問題」。
現代の私たちの暮らしにある様々な問題の解決に、ライブで聞いたことをヒントにどんな解決方法があるんだろうとずっと気になっています。
男性は個として扱われる機会がほとんどで、社会と個人との距離が近い気がします。
女性は、家庭での位置付けや男性との関係という”何かの一部“としての自分、というところから考え始めなければ、 ”私“という個まで行き着けない。高群さんの生きた時代よりはずっと現代日本の女性は自由なのかもしれないけれど、土台が大きく変わったとも感じられない気がします。
未だバリバリの父系制である日本のド田舎で生まれ育ちなぜか国外に弾き飛ばされて少しの時間だけ西洋に触れることのできた私には、他国とは何か少し違う、日本女性独特の歪みみたいなものを微妙に感じます。もちろん私自身の中にそれがあるからこその違和感であり、その違和感を取り除きたいので、もっと深く広くこのことを知りたいと思います。
今回も考える機会をいただきました、ありがとうございます。