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【Overseas】 ガザ、そして無力感について

これは、Ray of Letters - Overseas プランのメンバー限定記事ですが、まだ始めたばかりなので、サンプルとしてメンバーでなくても誰でも見れるようにしました。
今回は、Caitlin Johnstone のOn Gaza And Feelings Of Powerlessness についてです。繊細でありながら、とてもパワフルな記事です。全訳をこちらにあります。


窒素と酸素と無力感

今日(10月27日)、衆議院選挙の日、ケイトリンさんの新しいポストが届いていた。かなり長い。第一文目の「あなたは無力感にさいなまれる(It’s the sense of powerlessness that gets to you.)」を見て、おーっとなる。無力感という言葉を新鮮に感じている自分に気がついた。そんな使い古した言葉に。

10代の頃を思春期とか青春とか呼ぶことが多いけれど、そういう時期の付属物のように無力感という言葉は日常にまとわりついて、僕は無力感と親しい関係を築いていた。この世に対する漠然とした無力感がドラマチックに現れる年頃。無力感が一種の興奮として自分の人生の中に、ある位置を占め始める。”興奮する無力感”とはなんとも語義矛盾なのだが、10代の頃の感情のほとんどはそんなものだった。

やがてそんな胸踊る憂鬱のような感情は消えてなくなり、無力感という言葉そのものが無力になっていく。そこらにいつでも置きっ放しにされ、誰にも気づかれないもの。陳腐化して擦り切れて、皆に打ち捨てられた無力感。いつの間にか、無力感は窒素と酸素といっしょになって空気の構成物の一つになっていた。

今回のケイトリンさんの記事、On Gaza And Feelings Of Powerlessness を読み始めて、はっと思い出したのだった。あの無力感は元気にしているだろうかと。そう言えば、今日は選挙の日だ。無力感の出番の日だった。

ケイトリンの「ガザ、そして無力感について」

無力感と無力

一年以上続く、虐殺を止められないという現実の前に、今、世界中の多くの人が徹底的な無力感にさいなまれている。我々は無力なのだというメッセージを毎日毎日、これでもか、これでもかとテキストと画像とビデオで頭に叩き込まれる。他人(ひと)の物を壊してはいけない、盗んではいけない、他人(ひと)に危害を加えてはいけない、拷問してはいけない、強姦してはいけない、殺してはいけない等という人類共通のルール(とつい最近まで信じられていたもの)が、毎日完膚なきまで破壊され、それを止められない。問題は、無力感ではなく、無力そのものなのだ。

この記事で、ケイトリンさんは、powerlessness(無力)という単語を6回使っている。彼女は記事を書く時、たいていの場合、なんらかの出来事を取り上げ、その意味を解釈し、分析し、読者にシェアするというスタイルを取っている。彼女が、Caitlin’s Newsletter で何をしようとしているかを説明している文章があるのだが、それを読むと、彼女が「人類の意識を覚醒させ、健全な世界とはどのようなものかという私の理解」を広めたいんだということが分かる。なぜそんなことをしてるかのか?彼女は「現在私たちの種が直面している大きな問題はすべて、現実に起きていることに対する誤った認識から生まれているから」と理解しているからだ。その点では、おこがまし過ぎてヘソが茶を沸かすレベルだが、僕が Ray of Letters メンバーシップで企んでいることと共通している。

しかし、今回の記事を読み始めて、おや?と思ったのは、今回は少しスタイルが違ったからだ。この記事では、彼女はなんらかの出来事そのものを論評するのではなく、その外にいる世界の人々について書いている。彼女の読者は全世界に数百万いる。その人たちのことを書いているのだ。

ガザの虐殺に憤るという自然な反応が、まるで夢を語る子どもに下世話な利得だけが価値だと思っている大人が「そんな大きなこと考えずに、堅実な人生を歩みなさい」などと諭すように、軽々しく取り扱われる。ケイトリンさんは、最近のCNNのインタビューで、ガザ虐殺のことをふられたカマラ・ハリスが「それよりも日常の食料品の値段や中絶の権利の方が大事だから、そっちのことを考えて」と答えて、質問したアンダーソン・クーパーを固まらせた例を挙げている。食料品の値段も中絶の権利も大事であることには誰も異論はないだろう。しかし、なんの罪もない子供達が最も残虐なやり方で計画的に飢えさせられ、爆薬で身体を吹き飛ばされ、大人の男も女も拷問され、強姦され、生きたまま焼き殺される、それを止めることが出来ないという事態より深刻なことがこの世にあるのだろうか?

カマラ・ハリスを攻撃することが、ケイトリンさんの意図ではない(ここでも、また他の記事でも、ケイトリンさんは、”ハリス対トランプ”という対抗軸を徹底的に拒否する。そこに足をすくわれると問題の本質を見誤るからだ。まったく同感)。現在の世界において、ハリスが特殊なのではなく、今我々が直面している問題が特殊なのだということに、ケイトリンさんは注意を促そうとしている。人類にとって最も根本的な価値として信じられていたはずのことをなかったことにして、せいぜい身の回り50センチくらいのことに専念しなさいという処世観に、人類が数千年に渡って積み上げてきた巨大な思想の構築物がいとも簡単に噴き飛ばされるという人類史的な危機の中に我々はいる。しかし、我々の生活は「何やっても無駄だから、今日のお夕飯は何にしましょう」に支配されている。無力感の源泉はそこにある。

余談になるが、11月3日に予定している「LIVE 71 ヨーロッパの死」は、この崩壊する巨大な思想の構築物について考える。

不可能性

おかしい。それでもなんとかできないのか。多くの人がこんな状況に抗っている。実際、世界中で何百万人もの人が街頭にくりだし、イスラエルによるパレスチナ人の虐殺に反対するデモをしている。しかし、大虐殺は止まらない。ケイトリンさんは、我々の道がいかに閉ざされているのかを徹底的に記述している。

投票によって解決することはできない。選挙で起こりうるすべての結果が、さらなる大量虐殺につながるように、不正義が内包されているのだから。虐殺を阻止するために革命を戦うこともできない。なぜなら、欧米人は現在、プロパガンダに踊らされすぎていて、十分な数を集めて蜂起をすることはできないし、したら殺されるからだ。兵器輸送を阻止したり、兵器メーカーに妨害工作をしたりといった直接的な行動も、かなりの刑期を覚悟しない限りはできない。

On Gaza And Feelings Of Powerlessness

これでは何もできない。民主主義の看板である選挙も、正義の回復を目指す革命も、生きた血の流れる労働者によるサボタージュも一切が役立たずだ。つまり、現実的に虐殺を止めるための力が我々にはない。無力感ではなく、完全な無力をケイトリンさんは確認する。そして、我々は苛立つ。その苛立ちは、虐殺者だけでなく、同様に無力感にさいなまれている仲間であるべき人たちにも向けられる。挙げ句の果てにどうなるかを彼女は誠実に描写している。

この現実は、大量虐殺に反対する人々に重くのしかかる。この悪夢を止めるために必要なことは何でもしているのに、それ以上のことをしない、あるいは自分の身体や命を危険にさらしていないという事実に対して、ネット上で活動家たちがブチ切れて、自分たちの味方の人々に怒りをぶつけているのを時々見かける。

On Gaza And Feelings Of Powerlessness

このような怒りを仲間である人たちにぶちまける仕草を日本語Xでも見ることが出来る。日本のあれやこれやの政治状況(例えば、今回の衆院選)について語る場が仲間割れの場に変わっていくことは珍しくない。「自分はビラを配ったが、お前は何もしていない」的な小さな、小さな優越の誇示が他者の萎縮化と序列化の道具として使われ、皆で倒そうとしていた敵と相似形のミニ階級社会を仲間内に作り、そうやって日本の市民運動はしばしば失速し、墜落する。日本人の意識の奥底深くに植え込まれた序列意識が日本を決して飛び立たせない。

また余談だが、れいわ新選組の困難はそこにある。山本太郎の言動、立ち居振る舞い、街頭での見知らぬ通行人との質疑応答を見るかぎり、彼は人間関係のモードそのものを変革しようとしている。彼は人間関係における序列を廃し、すべての人間とフラットに対応しようとする。しかし、多くの、いやほとんどの日本人はそれに対応出来ない。例えば、お客さん意識や優越意識を持っている者には、彼は傲慢と見える。もちろんれいわの熱烈な支持者の中にも、それが理解できない人がいても不思議はない。人間関係のモードは頭ではなく、身体で覚えるしかないものなので浸透は難しく、時間がかかる。だから、れいわ内部での軋轢は起こり続ける。しかし、それこそがれいわが存在することの効用なのだ。実践によって人間の社会は変わっていく。れいわ新選組という運動体が、痛みに耐えて生き残ることを祈願するしかない。

彼女はそれでも理解を示す。無力感に打ちひしがれる人にも、怒りをぶちまける人にも同様の理解を示す。無力感にさいなまれているのではなく、まず「我々は無力であることにされている」ことを認識しようとケイトリンさんは呼びかける。まず、その構造を理解しよう、話はそれからだ、ということだ。

現在進行中の残虐行為を終わらせるための「迅速かつ即座に利用可能な選択肢」があるかのように語る人々について、彼女は、そういう態度を「我々が高度に統制された専制的ディストピアに住んでいることに目を瞑り、自分を騙している」として目もくれない。学校で教わったようなことで対処できるなら、そもそも我々が今呻吟するような問題はなかったはずだ。

我々の強さ

ここから記事のクライマックスに入っていく。最も単純で明白な現実に我々の力の源泉があることをケイトリンさんは読者に思い出させようとする。つまり、我々は、少数の権力者とは全く比較にならないレベルで圧倒的な人数だという事実。

もちろん、私たちは最も現実的な意味で力を持っている。寡頭的権力者や帝国の経営者よりも普通の人々の方がずっと多いのだから、私たちが十分な数で立ち上がれば、私たちが望むどんな変化も簡単に実行できるのだ。
(注)ここで、oligarchsという言葉をオリガルヒと訳してしまうとソ連崩壊後のオリガルヒを連想させてしまい、なんのことか分からなくなるので「寡頭的権力者」と訳した。

On Gaza And Feelings Of Powerlessness

そして、彼女は言う。

私たちは、帝国が築かれている基礎である、すべての労働力と購買力を所有している。

On Gaza And Feelings Of Powerlessness

つまり、全人類の圧倒的多数である我々一般人がいなければ、この世界の動きは停止してしまうのだということをケイトリンさんは言っている。それが我々の強さなのだと。

ここで、また少し脇道にそれるが、16世紀に書かれたエティエンヌ・ド・ラ・ボエシ(Étienne de La Boétie)の『自発的隷従論』を思い出す。当時大学生であったボエシは、たった一人の国王になぜ大勢の人々が黙って服従しているのかを疑問に思い、それを解明しようとする。彼の観察する当時のフランスの社会は以下のようなものだった。

「圧政者のまわりにいるのは、こびへつらい、気を引こうとする連中である。この者たちは、圧政者の言いつけを守るばかりでなく、彼の望む通りにものを考えなければならないし、さらには、彼を満足させるために、その意向をあらかじめくみとらなければならない。連中は、圧政者に服従するだけでは十分ではなく、彼に気に入られなければならない。彼の命に従って働くために、自分の意志を捨て、自分をいじめ、自分を殺さなければならない。彼の快楽を自分の快楽とし、彼の好みのために自分の好みを犠牲にし、自分の性質をむりやり変え、自分の本性を捨て去らねばならない。彼のことば、声、合図、視線にたえず注意を払い、望みを忖度し、考えを知るために、自分の目、足、手をいつでも動かせるように整えておかねばならない。」

まるで、現在の日本社会そのものではないか。500年前のフランスは今の日本のような忖度社会だったとは。そんな時代に、ボエシは、大勢の群衆の一人一人が「もう王に隷従はしない」と決意したらどうなるか?という問いを投げる。戦えと言ってるわけではない。もう支えないとしたらということだ。そうすれば、王という地位は、土台を失い、みずからの重みによって崩れ落ちていくだろうと。 『自発的隷従論』は友人のモンテーニュのアドバイスで、ボエシが生きている間には出版されなかった。彼の身に危険が及ぶことをモンテーニュは心配したからだ。しかし、それから200年経ち、出版され、フランス革命前史の一部を形成していく。この本については、いずれ「本の旅プラン」の方で書こうと思うので、この話はここで止めて元に戻る。

我々の強さは分かったとしよう。では、なぜ我々は無力なままなのか?彼女は次のように言う。

しかし、私たちが十分な数で立ち上がることができないのは、あまりにも多くの人々が、これまでに存在したことのないほど洗練されたプロパガンダ・マシンの助けを借りて、大量虐殺的、生態系破壊的、全人類殺戮的な現状が容認されると信じ込むよう、うまく洗脳されているからだ。

On Gaza And Feelings Of Powerlessness

ここにケイトリンさんが書き続け、発信し続ける理由がある。つまり、我々は無知の闇に縛り付けられているから、我々は自分の力を使うことが出来ないのだと。権力者は、大規模な心理操作に成功している限り、我々は完全に無力でい続ける。

革命的な変化は必要ないと私たちを操る条件付けを振り払う方法を見つけることができれば、何でも可能になる。もし、十分な数の人々が変革の緊急性に目覚めれば、全国的なストライキや大規模な市民的不服従のような集団的手段は、発砲することなく資本主義帝国を屈服させることができるだろう。

On Gaza And Feelings Of Powerlessness

救うべき世界

ここまで読んで、なんだ、ケイトリンさんは、闘争を呼びかける檄文を書いたのかと思わせてしまったら、それは僕の文章の不味さのせいだ。我々は既に無力感に十分傷ついている。彼女はそれを十分に知っている。それは、おそらく、いや確実に彼女自身が十分以上に傷ついているからだと思う。彼女は我々の傷口に塩をぬるのではなく、我々が「権力者によって、権力者の利益のために、多くの人々から権力を吸い上げ、少数の寡頭的権力者や帝国の経営者に与えるように操作された文明」の中で生かされていることに気がつくだけで、無力から解放されることを伝えようとしている。

しかし、無力感に沈んでいる我々を責めるわけでもないし、急き立てもしない。感情を感情として生かしてやれと言う。

だから、無力感を感じているなら、無力感を感じればいい。悲しみを感じているなら、悲しみに身を任せればいい。怒りを感じているなら、怒りに身を任せればいい。動くな。話すな。考えるな。ただ感じろ。泣け。呻け。叫べ。感情のエネルギーの中に勇気をもって座り、自分の中に声を与えれば、そのメッセージが伝われば、感情は動き出す。

On Gaza And Feelings Of Powerlessness

この一年ガザで起きていることが様々な反応を喚起し、様々な論考が現れるのを見てきた。政治学者、法学者、哲学者、歴史学者、ジャーナリスト、役人、政治家などが、それぞれの視角から、それぞれのアプローチで、今人類に何が起きているのかを解釈し、分析する。

しかし、ケイトリンさんはこの記事で感情を主題にした。そんなアプローチは初めて見た。どこかにいる見知らぬ第三者の感情ではなく、彼女の記事を読んでいる人の、そして回り回って今これを読んでいるあなたの感情の問題として彼女は書いている。しかし、それは彼女に取って当たり前のことなのだろう。今、破壊されつつあるのは地球上のどこか一点でも、ある一つの集団でもなく、人類全体なのだから。

最後に彼女はいう。感情を感じきったら、立ち上がろう、と。

なぜなら、私たちには救うべき世界があるから。



 『ガザ、そして無力感について』の全訳はこちらにあります。



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