自分ごととして考える - パレスチナ / Take Matters Into Our Own Hands - Palestine
この女性、アビー・マーティンは激昂している。彼女はもちろんイスラエルによるパレスチナ人の残忍な大量殺戮に悲憤慷慨しているのだけど、ここで彼女の激昂が向けられているのは、そこではない。「ネタニヤフが異常だからこうなった」とまとめるナラティブに激昂している。このナラティブの裏にあるのは、イスラエルという国家はこの大量殺戮の罪から免罪されるという暗示だからだ。
ヒトラーやスターリンが極めて個人的な狂気の持ち主であったことは否定しない。しかし、その後の研究で明らかになったのは、彼らが突発的"事故"ではなかったということだ。彼らの出現を許す、あるいは求めた社会を抜きにしては、彼らの担った役回りは説明がつかない。
ヒトラーやスターリン個人を叩くことで得られる心理的カタルシスは、英雄史観のB面としての悪党史観に埋没していることを示している。英雄史観/悪党史観は、へロドトスやトゥキュディデスが活躍した古代の産物であり、現代歴史学では、とっくに過去のものとなっているが、日本のように歴史教育の貧しい国では、まだ生き残っている。
第二次世界大戦は、”日本の軍部がやらかした、悪いのはあいつらだ”、あるいは”天皇が悪い、わしらは関係ない被害者だ、反対してた日本人はいっぱいいたけど、拷問されて殺された、戦争反対なんて言ったら非国民と罵られて殺されるから黙ってただけだ”等々あらゆる”説明”を発見するのは難しくない。極め付けは、戦時中の「沈黙」を勲章として戦後、恥ずかしげもなく再登場したリベラル達。
それぞれの階層にいたこういう日本人を糾弾しようとしてるわけではない。「自分はあいつらとは違う」という理屈で自分を免責しようとする日本人のメンタリティが社会の全スペクトラムに渡って存在していたということを確認しているだけだ。
戦争の責は、国家全体に帰せられる。”日本の田舎の年老いた無力な農民”も、”中国大陸で残虐の限りを尽くした軍人”も関係なく、国家全体がまとめて罰せられる。史上初めて、”悪者”である個人を罰しようとしたニュルンベルグ裁判や東京裁判は、結局国家の一機関としての個人を析出するはめになり、国家の罪の断片的な上乗せに過ぎなくなった。「軍部が悪い」は虚しい言い訳として蒸発した。”悪い”と言えば、日本人全員が悪かったのだ。
2014年、イスラエルによる大規模なガザ侵攻があった。連日の空爆で一般のパレスチナ人が殺され続けた。マンハッタンの国連の周りではイスラエルの蛮行を非難するデモが毎日あった。彼らは不正義と戦い、我々は無力感と戦っていた。
ある日、ユダヤ人、イラク人、アフガン人の3人の同僚と歩いている時、ちょっと変わった風情のデモ隊に遭遇した。真っ黒のズボンとコート、黒い山高帽に三つ編みのような髪型。彼らは、Ultra-orthodox Jews (超伝統的ユダヤ人)だった。
いっしょにいたユダヤ人の同僚に、彼らは何をしてるんだ?ときいた。ユダヤ全史に渡る長い話を遮って分かったのは、彼らはイスラエルのガザ空爆に反対するデモをしているということだった。
そうか。それを聞いてその時、少し安堵したのは否定できない。一枚岩として見ることの出来る国家など存在しない。それを確認しただけのことだった。
しかし、だからと言って、パレスチナの領土を侵略し続け、何の罪もない一般のパレスチナ人を殺し続けるイスラエルという国家の罪が免責されるわけではない。「東条が悪かった」、「軍部が悪かった」と言って、日本が免責されるわけがないように、「ネタニヤフが悪い」、「シオニストが悪い」と言って、イスラエルという国家の罪が消えて無くなるわけではない。
アビー・マーティンは、パレスチナ人の虐殺を続けるイスラエルの国家としての全体性を証明するものとしていくつかの例を挙げている。「イスラエルのガザに対する攻撃が過剰だと考えているイスラエル人は、たった2%以下」であること、「2500人のパレスチナ人を殺し、500人の子どもを殺した2014年のイスラエルによろガザ攻撃を、95%のイスラエル人が支持」したこと、イスラエルがパレスチナ領土内に入植し(侵略し)、防御壁を構築することを90%のイスラエル人が支持」していること、「イスラエルの人権団体はそれを議会(knesset)に持ち込み全会一致で、壁の構築を是認し、近寄る者を射殺できる」決議を通したこと等。
こういう数字は、確かにイスラエルの一般人の共犯性の主張を支持するだろう。しかし、こういう証明は必要だとは思わない。これは、シオニズムの狂気の蛮行を、例えば、10%の国民しか支持しなかったら、それはイスラエルの国家としての責任ではなく、90%の国民が支持したなら、それはイスラエルの国家としての責任はないというような理屈だ。そんな都合の良い線引き、あるいは情状酌量は国際社会に通用したことはいまだかつて一度もない。国家の犯罪は、国内問題の理屈では容赦してもらえない。そんな法理は存在しない。
イスラエルによる限りなく続く残虐な行いを非難するポストをすると、超伝統ユダヤ主義者はシオニストに暴行されている動画や、シオニストとユダヤ人を区別すべきだという趣旨のリプをちょくちょく受け取る。異論は全くない。おそらく、これも日本人特有の”善意”の行いなのだろう。
”善意”をかまってるひまはないので放置する。しかし、「だから、どうなのだ?」という煩悶の気配が一切無いことに寒々としたものを感じている。それは今に至るまで「軍部が悪かった」で一切の責めをいなす日本人の、あのメンタリティの異形なのだろう。
シオニズムの運動は、形而上的な修辞を全部取り払うと、「幻想の国家を物理的な実体にする営み」と僕は言い換える。ここで日本人ならすぐ思い出すのではないだろうか、「國體の護持(こくたいのごじ)」という言葉を。19世紀末、日本は古代秩序の残滓を拾い集め、極めて抽象的な秩序を実体化することで新しい国体を作ろうとした。実体の積み上げでない秩序は、信仰しなければ崩壊する。
日本人は誠実に「國體の護持」を信仰し、努力した。第二次世界大戦中、敵国一般人を殺戮し、自国兵を餓死させ、敗戦後直ぐに一般女子を集めて国営性処理施設を上陸する米軍のために作ったのも、「國體」を守り抜くためだった。素朴で無邪気で無知な一般日本人が総体として「國體の護持」を望んでいたことが有名無名を問わず無数に残されている日記に書き残されている。
「ネタニヤフが悪い」や「シオニストが悪い」で、イスラエルが免罪される段階は、彼らがネタニヤフもシオニストも止められなかった時点で、とっくに終わっている。同様に、我々外国人は「イスラエルが悪い」で免罪される段階をとっくに逸した。我々はイスラエルの大虐殺を止められなかった。今も止められない。
焼け焦げた肉片になった子どもの写真や動画を毎日見て、悪玉を吊し上げて正義の味方になることの実際の効果は、我々人類全体の愚かさを姑息に隠蔽しているということなのだ。
アビー・マーティンの激昂に共感した。
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