NYC: Sugar daddy は甘鯛の目を女に食わせる
「Sugar daddyか?」
とバーの隣に座っていたアメリカ男が言った。
今バーから席をたって、出口に向かおうとしている日本人カップルの方に向けて、彼はちょっとアゴをつきだして僕を見て言ったのだった。
20代後半くらいの女とおそらく50代前半の男だった。男は身体にあった濃紺にピンストライプのスーツを着て、ネクタイもきちっとしめられたままだった。女は黒いニットのワンピースを着ていた。
Sugar daddy なあ、最近覚えたパパ活という単語を思い出したが、その男女に関心もなかったので、
「どうかな、分からんよ」と僕は答えた。
「いや、絶対そうだ」と彼は言い張った。何が彼にそう強く思わせたのだろうか。僕はあの男女のいた情景をちょっと思い出そうとしていた。
ここはマンハッタンに何軒かある和食レストランに併設されたバーなので、常軌を逸した音量で鳴る音楽と、いい加減なバーフードを避けたい人がやってくる。
それにしても、バーでは場違いなほど、あの男は料理を頼んでいたのは覚えている。カウンターを料理でいっぱいにしていた。
その男女がまだいる頃、女性バーテンダーが、いきなり僕に「食べたことありますか」と話しかけてきたのを思い出した。その男女とバーテンダーの会話に全然注意してなかった僕はなんのことが分からず、「何を?」と訊き返した。
男は甘鯛のカブト焼きの目を女に食べさせようとしていた。躊躇する女を見て楽しんでいるようにも見えた。女性バーテンダーは女を助けようとしたのかもしれない。甘鯛の目のことを言ってることに気がついて、僕はとっさに言うことが見つからず、
「その目、大きいですね」と言っていた。
僕は、女に助け舟を出した女性バーテンダーを落胆させたみたいだった。僕は、これからの人生を、役に立たない奴という烙印を押されて、生きていく覚悟をした。
甘鯛の目以外に、Sugar daddy を裏付けるようなことは、何も思い出せなかった。男はずっと笑顔だった。女は真顔と笑顔が交互に点滅しているような感じだった。
しばらくして、あっアレかなということを思い出した。
その男女は白ワインを飲んでいたのだが、ある時、男が女のグラスに自分のグラスのワインを混ぜていた。女のグラスのワインがぬるくなっていたので、自分のグラスの冷たいワインを混ぜて温度を中和するとか言っていた。その時は何も考えなかったが、この男は結構キショい奴だったのかもしれない。今思い出すと、自分がその女なら、それは嫌だと思うだろう。
隣に座っているアメリカ男はそれを見たのかもしれない。僕はもう一度彼の方を向いて、
「いや、そうかもしれない」と言い直した。
アメリカ男は「絶対そうだ」とまた繰り返した。
甘鯛の目を食わされて、ワインを混ぜられて帰った女が僕は不憫に思えてきた。