あなたも私もグラデーション
出典は忘れてしまったけれど、心理学者の河合隼雄さん(故人)が自著の中で、こんなことを書いていた。
「子どもたちに母親についての作文を書かせると、大体が『やさしいお母さん』という決まり切った母親像しか書かない。だけど父親について書かせると、『仕事をがんばってる』『かっこいい』といったものから、『おならがくさい』『家でダラッとしている』といったものまで、非常にバリエーションに富んだ父親像を書く」
この文章が書かれたのは20年以上前だと思うので、その当時は母親のイメージがかなり固定されていたとは思う。やさしくて料理上手で、家族に対して献身的かつ自己犠牲的な良妻賢母。それこそが正しい母親像と認識されていた社会では、それに自分を当てはめなくては……とがんばっていた女性もいたんじゃないだろうか。
いまの時代では、河合さんが指摘するほどの母親への固定観念はないだろうけど、自己犠牲型良妻賢母幻想は根強く残っている気がする。お弁当箱の隅にこびりついたヌメヌメ汚れみたいに。その代表が、昨日から話題になっている歌『あたしおかあさんだから』でしょう。
あの歌詞に描かれている母親像は、おそらく作詞家さんの理想なのだろう。だれど、たかが個人の理想を一般化して、多くの人に押し付けるようなことはしてはいけないよねーと思うし、「母親」をはじめとする人間の属性の中で、「これは母親としてOK」「これは母親失格」みたいな区別を煽るようなことをしてはダメよ、と私が作詞家さんの母親だったら注意すると思う。だって、人間はグラデーションの中を生きているからね。
発達障害の一つに、「自閉症スペクトラム症」がある。スペクトラムとは、英語で「連続体」のことだ。つまりこの障害は、はっきりと「ここからが障害で、それ以外は健常です」と分類できるものではなく、障害の濃度がグラデーションのように存在していて、もっとも濃度が高い人もいれば、濃度が低くて健常者にとても近い人もいるということだ。
このスペクトラムという考え方のポイントは、健常者と障害者がひとつなぎであるということ。それは、自閉症スペクトラム症と判断されるような要素が、どんな人にも存在しうるということであり、「あいつは障害者だ」とはっきりと言える境界線など存在しないということだと思う。
この「スペクトラム」にまつわる話を聞いたとき、私は「それっていろんなところにあるよね」と思った。たとえば私は性別としては女だし、恋愛対象も男性だけれど、周りの人には「女っぽくない」「男かよ」と言われる。それは、私が一般の女性が好むもの(恋愛ドラマとかかわいいキャラクターとか)が好きじゃなかったり、言葉遣いが乱暴であるが故だけれど、それでも私は自分が「女性である」という自覚がある。
おそらく私は、女性というスペクトラムのグラデーションの中では、濃度が非常に低いタイプなんだろう。だけど、それはあくまで濃度の問題であって、女性のスペクトラムの中に存在する限り、女性であることに変わりはない。それと同じで、男性にもスペクトラムがあるだろうし、母親にもあるに違いない。そう考えると、この世はみんなグラデーションでできているように思える。
例の歌に出てくるような母親の存在を否定はしないけれど、それは「母親」というグラデーションの中の、一つの色合いでしかない。そして、あの作詞家さんのガタいのよさとか、言葉の選び方がちょっといびつなことを、「作詞家らしくない」と言わないようにしたい。それはそれで、作詞家というグラデーションの中の一つの色だと思うので。
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