見出し画像

【エッセイ】猫の目の色

幼いころ、自然とわたしとの間には境界線がなかった。
自然に囲まれた東北の田舎で育ったわたしには、野山が遊び場のようで、今思えば結構危険な遊びもしていた。
一人で藪の中に入って行ったり、背丈よりはるかに高い崖を飛んだり。
動物との距離感もよくわかっていなかったので、ときどき手ひどいしっぺ返しをくらったりした。

⋈・。・。⋈・。・。⋈・。・。⋈・。・。⋈

郷土の作家・宮沢賢治の童話や詩には繰り返し、「自然と融和したいけれども、そこからはじかれる人間」というテーマが出てくる。
たとえば「かしわばやしの夜」や「鹿踊りのはじまり」。
主人公は林の木々や鹿たちの世界に近づくけれども、拒絶されてしまう。
ひとは木を伐り、動物を狩る。
こちらが自然と融和したいと無邪気に願っても、彼らにとってみれば決して油断してはならない存在なのだ。

賢治はいつも、向こう側に入っていけない寂しさのようなものを抱えていた人なのじゃないかと思う。
農学校の教師をしていた頃、麦畑が月明かりにきらきら光っているのを見て、一時間も麦畑の畝を泳ぎ回ったりしたという。
嬉しいことがあると「ホーホー」と叫びながら踊りだす様子を、かつての賢治の教え子たちが語っている。
「鹿踊りのはじまり」で鹿たちの歌い踊る集会を見た主人公が、自分もつい楽しくなって踊り出てしまう描写は、とても賢治らしい。
けれども、物語の中で、人の姿に驚いた鹿たちは逃げ去ってしまう。
その場に取り残された寂しさもまた、わたしには賢治の感性だと思える。

⋈・。・。⋈・。・。⋈・。・。⋈・。・。⋈

さて、ある日の小学校からの帰り道、わたしは最短ルートの国道沿いではなく、かなり遠回りして神社や田んぼやリンゴ畑のある田舎道をぶらぶら帰っていた。
そっちの方が、おもしろいことがあったから。
道の途中のグミの木やスグリの木の実が熟しているか、田んぼの側溝にザリガニがいないか、神社の入り口にシロバナのタンポポが咲いていないか、といったように、子どものわたしには確認しなければならないことがたくさんあった。

3つ年下のななえちゃんの家の猫に会うことも、日課のひとつだった。
半ノラ、半家猫のルルは、とてもきれいな目の色をしていた。
おそらく、日本猫とシャム猫のミックスだったんじゃないかと思う。
給食の食べ残しのパンを持っている時などは、甘えたような声で「みゃあ」と体をこすりつけてくる。

そんなルルを、しばらく見なかった。
どうしたんだろうと思っていたら、その日、ななえちゃんの家のガレージから、まだよちよちとした子猫が2匹現れた。
ルルはお母さんになっていたのだ。
あまりの愛くるしさに思わず手を伸ばそうとした。

その時、ものすごい勢いで「シャーッ」という威嚇音を上げながら、子猫の後ろからルルが飛び出してきた。
全身の毛は逆立ち、つりあがった目は一瞬にして真っ赤に変わった。
比喩ではなくて、実際に血のような色になったのだ。
猫の目が怒りで真っ赤になるのを初めて見た。
昔話の絵本で見た「ばけねこ」の挿絵にそっくりだった。

わたしは驚きと恐怖で数秒間、身動きをとることができなかった。
ルルとは仲良しだと思っていたので、全身で敵意をむき出しにしてくる彼女を見て、心が凍り付いたようになった。
その場を去らないわたしに、ルルはさらに攻撃を仕掛けようとして、じりじり距離を詰めてきた。

はっと我に帰って、あわてて走り去った。
走っているうちに、きゅっと凍り付いた心が少しほどけ、涙があふれてきた。
ルルはもう、友達じゃないんだ。
幼いわたしにはそのことが、ひどくこたえた。

その日、わが子を人間から守ろうとする母猫の本能を見た。
はっきりと、猫の世界とわたしの世界との間には境界があることを知った。
子育て中の動物は気が立っているから近づいてはいけないのだと、いつかおじいちゃんが言っていた。
わたしの無邪気な心は、母となったルルには通用しないのだ。
彼女にとって、わたしは「境界侵犯をするもの」だった。

それ以来、自然界に踏み入る時には礼儀を欠いてはいけないのだという、漠然とした意識が生まれたように思う。
寂しいことだけれど、何事にも適切な距離感というものがあるのだ。

ところで、あんな風に一瞬で猫の目の色が変わるのを、あれ以来見たことがない。
猫の目の色が、怒りで真っ赤になるという現象がよくあることなのかも、わたしにはわからない。
大人になってから思い立って、グーグル検索してみたけれど、そんな現象について解説しているページは見当たらなかった。
たった1件だけ、知恵袋で「猫が怒りで目が真っ赤になったが、大丈夫だろうか」という質問があったが、「何かの目の病気ではないか」「見間違いではないか」という回答ばかりだった。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?