【散文】暗夜と小さきもの
魂の暗夜というものについて、立ち止まって見ています。「暗夜」というのは荒みや無味乾燥として感じられるものであり、体験する者にとっては苦しみや辛いものとして感じられます。
しかし、16世紀の神秘主義者・十字架の聖ヨハネは暗夜を『神へと向かう人間の霊的歩み、その過程』と見ており、愛の完成に辿り着くための道、エゴイズムの浄めとしています。むしろ、能動的祈りから受動的祈りへのきっかけとして捉えられるでしょう。
自力から他力へ、と言い換えてもいいかもしれません。
自分を浄化し、無にして、神自らが働くようにする。
これが祈りの深化であると言えそうです。
ここで思い出されるのは、聖書にある『心の貧しいものは幸いである』という言葉です。通常は、心が豊かであることの方が良いと思いますよね。なぜ心が貧しいものが幸いなのか、多くの人が引っかかるポイントの一つです。
魂の暗夜が愛の完成へと至るきっかけであることと、心の貧しさが幸いとなることは、ひじょうに近い関係にあります。なぜなら、荒みを通ることによって祈りが深化するように、心の貧しさを知って己の弱さや惨めさを痛感することで、傲慢さから遠ざけられ、神の愛によりたのむからです。
(傲慢な心には神の愛が入ってくる余地がないのです)
心の貧しい人とは、心の豊かさを失った状態の人です。己の中に、自分を支える拠り所を持っていない人でしょう。そういう者が幸いだ、ということを表していると考えられます。
リジューの聖テレーズは「小さき道」を歩んだ19世紀の聖人ですが、この「小ささ」とは、自分の弱さを神さまがわかってくださっている、ということに他なりません。
彼女は小テレーズ、小さきテレーズ、とも言われていて、若く愛らしい姿がよく知られています。自分の弱さと小ささをよく知っていた人です。まさに幼子のような、小鳥のような、信頼とまったき委託の道を歩み、24歳の若さで天に召されました。
このようなカルメル会の聖人たちの霊性の歩みは、禅などの東洋思想とも相通じるところがあるように思いますが、それについてはまた機会をあらためて考えてみたいです。