私が必死で怒った声は無駄じゃなかった
ここ最近、急に子育てが楽になってきた感覚がありました。
一番の理由は7歳(小2)の長女がお手伝いを安全に出来るようになったからなんです。
包丁もキャベツとか柔らかいものならサクサクっとできるし、火の扱いも慣れてきて、ウインナーを炒めるくらいなら簡単にできるようになっています。
そんなわりと器用な長女も、小さい頃は絵に描いたようなお転婆女子でした。
むしろ、お転婆というよりも危なっかしい子でした。
信号が赤なのに走り出そうとするし、スーパーではすぐにどこかへ走っていくし、車道を横断しようと試みることも数知れず。
手を繋いでも無理矢理手を放そうとする長女の身を守るために、いつも手首を掴んで歩いていました。その頃は優しく手を繋いでいる親子を見る度に羨ましいと思っていました。
ちょっと近所のスーパーに行くだけでも一瞬も気を抜けないので私は日々の生活だけでも疲れ切っていました。
ベビーカーに乗せる日もありましたが、ベビーカーの中に外に出せと暴れ、大泣きして、周りに心配そうに見られちゃって、それはそれで大変でした。
そんな長女も7歳になってからは危ない行動がほぼなくなり、私の長女の身を守るという役割を降りることができました。心の負担はかなり減って、すごく楽になってきました。
そこでやっと気付いたんです。
私にとって育児が大変だと感じる一番の原因は、何が危険か分かっていない子どもの命を必死で守っていたことだったんです。
初めての子育てなのに、お転婆な長女を必死で守ってきた私は本当に偉かったなと自画自賛したいくらいです。
子育ては大変なものだと分かっていても、「危ないよ!」と大きな声を掛けて必死に走っている3歳の長女を追いかけていた日は、虚しさとやるせなさを感じたこともありました。
でも最近、長女が次女(4歳)に「あぶないよ!」と注意していた口調が私にそっくりで、なんか急に頑張りが報われた気がしました。
2人の様子を傍でみながら、私が怒って注意していた声は幼い頃の長女にはちゃんと届いていて意味のないことじゃなかったと思えた瞬間でした。
子育ての苦労が報われる瞬間って、「ありがとう」と言われることだけじゃないんですね。