同じ月を見ていた⑤
月曜日の午後。
外は朝から雨が降り続いている。
わたしは会社を休んでいた。
あの夜からまだ開けられずにいる小さな箱を、手のひらの上に乗せる。蒼一のことだ。きっとわたしの左手薬指にぴったり合う、素敵な指輪なのだろう。
箱を元通りテーブルの上に置き、ベッドの傍らに投げられたスマートフォンを横目で見た。
遼からの連絡は、変わらずないままだった。
部屋着のまま、ゴロンとベッドに横になる。
どうすべきなのか、ずっと考えている。
いや、考えるふりをしている。。
もう、とっくに答えは出ているのだ。
遼との関係を終わらせる……
このまま蒼一を裏切り続けることはできない。
遼のことも、いつまでも縛り付けておきたくない。
もっと早く離れるべきだったのだ。
遼を傷つけてしまう前に。
『今日、会えない?』
スマホを手に取り、わたしは遼にメールした。
思ったよりもずっと早く、返事がきた。
『いいよ』
よかった……。
と、胸を撫で下ろす。断られたら、決心が鈍ってしまいそうな気がしていた。
『19時、いつものホテルで』
『わかった』
短いやりとり、短い文字。
それでも疼いてしまう胸を隠すように、わたしはベッドから起き上がった。
雨は、すっかり小降りになっていた。
♢♢♢♢♢
ホテルには、いつも遼の方が早く着いていた。
わたしは仕事帰りなので時間通りに着くことが難しい時もあるからだ。
今日も、先に着いた遼から部屋の番号を知らせるメールが来ていた。
ノックして入ると、部屋の中は真っ暗だった。
中へ足を進めると、遼は窓際に立って外を眺めていた。
「灯里さん。こっちに来て」
逆光で遼の顔までは見えなかったが、手招きしているのは見えた。
「真っ暗にして何を見てるの……?」
「月だよ」
雨があがって、空にはきれいな三日月がぽっかりと浮かんでいる。
猫の爪の痕のような、か細い月だった。
「空が猫に引っ掻かれたみたいだね」
ポツリと呟いた遼に、思わず目を向ける。
「わたしも同じこと考えてた……」
そう言うと、遼はうれしそうに 気が合うね、と微笑った。
「ずっと……考えてたんだ」
後ろからそっと抱きしめながら遼が言う。
「おれは、灯里さんのためなら自分が傷つくくらい平気だと思ってた。一緒にいるところを見たくらいで何も変わらないって自信だってあった。……でも、やっぱりいやだ……」
「……」
「灯里さんと当たり前に手を繋いでるあの人が、羨ましくて仕方なかった。おれは外では会えない、手なんて繋げないのにって……」
「……遼」
「ねぇ……おれのものになってよ。おれだけを好きになって。おれだけを見て……」
絞り出すような声に胸が震える。
わたしは、分かっていなかった。
遼を傷つけまいと、別れを切り出そうとしていた。
でも遼は既に傷ついていたのだ。。
きっとわたしなんかよりずっと。十分すぎるほどに。
優しい微笑みの向こうで、もがいて、苦しんでいたのだ。。
「灯里さん……好きだよ……愛してる」
『愛してる』
初めて言われたその言葉に、凍りついていた気持ちが、涙になって零れ出していく。
そして……気付いてしまった。
自分の本当の想いに気付いてしまった。
わたしは……きっとずっと前から、遼に恋をしていた。
彼がくれる言葉も、甘い時間も、触れた指先の熱も、全部愛おしい。
でも、わたしはこの手を放さなければならないのだ。。
バカだな、わたし……。
今頃気づいても、もう遅いのに……。
「ごめん……」
「ごめん、遼……」
ずっとはぐらかしていた問に、わたしは初めて答えた。
「それが、答えだね……?」
わたしは噛みしめるように、ゆっくりと頷く。
「わかった」
「もう……解放してあげる」
そう言うと遼は身体を離した。
ぬくもりがすうっと冷めていく。
振り返ると、遼はこちらを見ていた。
「なんで灯里さんが泣くの」
今まで見たことのない哀しい顔に、胸が押し潰されそうな気がした。
「……笑って。最後だよ」
考えるより先に、身体が動いていた。
わたしは遼の胸に飛び込んでいた。
驚いて目を丸くしている遼に背伸びをしてそっとキスをする。
自分からするのは初めてだった。
「お願い……何も訊かないで」
「……そんなの、狡いよ」
「狡い……」
そう言って遼は、わたしの唇を塞いだ。
噛み付くようなキスだった。
お互いの服を剥ぎ取るようにして脱がし、求め合う。
触れられるだけで甘い痛みがつま先から頭の先まで駆け昇り、何かに掴まりたくて、うっすらと汗ばんだ遼の背中に思わず爪をたてる。切ない吐息が耳にかかり、指先がビリビリと痺れた。
何度も何度も昇り詰めさせられ、でもまだ足りないと手を伸ばす。
もうこのまま……
このまま溶けて、なくなってしまえたらいいのに。
「……好き……」
1度だけ呟いた声が、遼に聞こえたかどうかはわからない。
空が白んで月が消えかけた頃、遼は部屋を出て行った。
遼は、「またね」とは言わなかった。それだけがいつもと違っていた。
わたしに残されたのは、もうこれで本当に最後なのだという空虚感と、首筋に残る小さな赤い痕だけだった。