同じ月を見ていた⑥〈終〉
話があると蒼一の家に行ったのは、火曜の夜のことだった。
指輪は受け取れない、と箱を返すと、蒼一は虚をつかれたような顔をした。
遼への想いに気付いてしまった今、何でもないふりをして蒼一の傍にいることはできない。
「ごめんなさい」
「……理由を聞かせてもらえる?」
蒼一はわたしの前にコーヒーの入ったカップを静かに置いた。
付き合いだして1年目の記念日に、一緒に買ったペアのコーヒーカップだ。
「蒼一とは別に……付き合ってる人がいたの」
「……あの美容師の人?」
少しの沈黙のあとに、蒼一が言う。
「えっ……?」
顔を上げると、蒼一はやっぱりね、と言って苦笑した。
なぜ、という気持ちが胸の中で渦巻く。
「……確証があった訳じゃないんだけど、何となく。俺たちもう5年も付き合ってるんだよ。恋人の変化に気づかないはずないでしょ。……それに……」
「同じ匂いがしたんだ」
「サロンの前で会った時、灯里のシャンプーと同じ匂いがした。まさかとは思ったけど……そっか、やっぱりそうだったんだ……」
蒼一はそう言うと、目の前の箱を手に取った。
「この指輪は、灯里の誕生日に渡すつもりで随分前から用意してたんだよ。でも、あの彼に獲られそうな気がして。……少し焦っちゃったかな……」
こういう駆け引きは苦手なんだ、と、蒼一は悲しく微笑った。
蒼一はわたしと遼のことに気が付いていた……
それでも一緒になろうと言ってくれていたのだ。
一体どんな気持ちだったのだろう。。どれだけ傷つけたのだろう。。
申し訳なさで胸がいっぱいになる。
「本当に……ごめんなさい」
「……俺と別れて、彼と付き合うの?」
蒼一の言葉に、わたしは首を振る。
『もう解放してあげる』
あの時の遼の言葉を思い出していた。
「……振られたわ」
そう、と言って少し考え込むと、蒼一はテーブルの上に組まれたわたしの手に自分の手を重ねた。
「灯里……俺は、それでもいいよ。灯里が傍にいてくれるなら、もうそのことで責めたりしない。もし結婚がネックになってるなら、もっと先に延ばしてもいい。俺は……ただ、灯里と離れたくない」
蒼一のまっすぐな言葉が胸に突き刺さる。
「ごめんなさい……」
「俺たちの5年間、こんなことで無しになるの?俺は嫌だよ」
「ごめん……」
「灯里……!」
蒼一はわたしの手を痛いほど握りしめる。
「このまま蒼一に甘えて付き合い続けても、彼を忘れることは出来ない。蒼一も、わたしが彼を想っていたことをすっかり忘れることは出来ないでしょう……?一緒にいれば、お互いずっと苦しむことになる。蒼一の人生まで狂わせたくないの。……お願い。わたしと、別れてください……」
自分勝手な申し出なのは百も承知だ。
でも、わたしは蒼一の傍にいる資格なんてない。
「………もう、決めたんだね……」
頷くと、蒼一は握っていた手をゆるめた。
「俺は本当に灯里のことが好きだったよ。これだけは忘れないでほしい。灯里と俺が一緒にいたこと、一緒にいた時間は、嘘にしたくない」
「……うん……」
「今までありがとう。……元気で」
帰り道、わたしは泣いた。
何事かと振り返る人もいた。でも気にせずに泣いた。
わたしは、遼とは別れると決めた時、確かにあの時までは、蒼一と一緒になりたい、なろうと思っていた。
蒼一が好きだった。
春のひだまりのようにあたたかくて優しい人。
蒼一の傍にいられたらどんなに幸せだっただろう。
でも、浜辺に書いた文字が打ち寄せる波で消されるように、わたしの心はあの一瞬でさらわれてしまった。
蒼一を傷つけ、遼のことも傷つけたこの選択が、正解だったのかどうかは分からない。
それでもわたしは、後悔してはいけない。これから先、どんなことがあっても、この選択を後悔してはいけないのだ。
空には、昨夜遼と2人で見た時よりもさらに頼りなく、か細くなった月が浮かんでいる。
付けられた傷のその隙間から零れるほんの僅かな月明かりが、わたしを照らしていた。
〈終〉