「聖誕〜春薫る風のうた」
初めて聴かせていただいたのは2017年10月12日の舞台で演奏された三部合唱。
中野龍定さんが作曲された愛らしい旋律。
たいへんお世話になっているお坊さまが 我が子の誕生を祝って 心をこめて編曲された三部合唱を拝聴した。
大陸風のからりとかわいた風を感じ 鮮やかなコーラルピンクが想起された。
その時 心明るくなるこの作品を いつか弾いてみたいと思った。
2月には決まってピンクのイメージの作品に触りたくなる私。
いつもお花のイメージや砂糖菓子のイメージの作品に触れたくなる。
2月はあまり得意ではない。だから幸福感を求めるのだと思う。
2019年の2月の日曜の買い出しの帰り道。
父の初めての大きな手術が成功に終わり 大きな心配が消えたこともあり ほっと安堵の生活を過ごしていた時期だった。
夕焼けの中を帰宅する時に突然浮かび始めた冒頭の音たち。
忘れないように歌いながら帰宅し 荷物を置いて すぐ五線に書きつけた。
ルンビニ園に かんばしく
無憂華開く 春八日
生まれ給いし 聖こそ
救いのみおや 釈迦世尊
生きとし生ける もののため
幾千代かけて 変りなく
導き給う おん慈悲の
法の道こそ とうとけれ
甘露のあめに なぞらえて
あま茶のゆあみ ささげつつ
慕う我等の 花まつり
祝う我等の 花まつり
安武泰応さんの歌詞は物語のように感じ 情景を思い浮かべて 音にしていく喜びは 2番の終わりまでは楽しくあっと言う間だった。
初めて知った無憂華という名前の花を写真で眺めたり絵にかいたりした。
編曲した楽譜に書きつけてあるメモには
無憂華ひらく かおる
風にのり
雨が降ることもある
景色は変わる
空を
星がのぼる
と書いてある。2番の終わりまではとどまることはなくどんどん書けた。
楽しくて何人かの方に聴いていただいたりして
今思い返しても楽しい時間です。
3番は転調しようかと思った。
純粋に「音楽」として お感じになられたことを
素直に 時には厳しくお伝えくださる方が
転調した案について「何かちがう」とはっきり言ってくださった。自分も何か違うなと思いつつ 安易に流れようとする気持ちがどこかに生まれて来ることをいさめ 腹を据えて向き合った。
その時に「甘露の雨」についてのお話を丁寧にお伝えくださったことはたいへん大きかった。
浮かばない状況を大きく転換させてくださった。
「甘露の雨」について考えながら眠った翌日のお仕事の空き時間。
ピアノで弾いているうちに間奏部分が突然生まれ 書きつけ弾いた。その動画をその方に聴いていただき 一緒に大喜びして。
つくることは孤独で 楽しいけれど孤独です。
喜びを共感してくださったことは本当にありがたかった。
そして間奏はさまざまな色の花たちが咲き乱れる情景になった。
オレンジ色の花
黄色の花
花は咲き乱れ 色はかおる
ピンク色の花
紫色の花
咲く
かおる
そして「甘露の雨」のお話からの3番は 途中で突然夜になるイメージ。
どこか夜の水銀灯の下で浮かびあがる桜を一人で静かに眺めているような
花と対話しているようで 自問自答しているような
風にのり
あたたかい慈雨につつまれる
風に舞い上がる雨は
尋ね 頷く
両腕ひろげ
宵に映える花 心のなか
空に
春風がふきぬけた
才能がある作編曲家の作品は弾きやすいもの。
私の作品は作った本人でもとても弾きにくい。
この作品は重心の場所が微妙で 身体には負担が大きく 多重構造が行きすぎていて複雑で 頭の中で整理することもたいへんだった。
しかし この経緯をずっと見守ってくださりご助言くださった方のおはからいにより2019年4月6日に演奏していただいた。
その前日 たまたま高野山におまいりすることにしていた。
流祖 曽我部俊雄さんにさまざまな想い‥お礼とお詫び(懐に甘えさせていただいて ピアノで編曲して演奏させていただいていること)をどうしてもお伝えしたかったのです。
曽我部さんの像の前で しばらくお話しました。
自分に優しさとぬくもりをもたらしてくれる御詠歌にで会わせていただけたこと そして たくさんの音楽的な学びを与えてくださっていること(西洋の音楽理論に厳格に則ろうとする私に感覚的な日本の心を教えてくれる)など お話しているうちにしばらく泣いた。
その翌日にこんなに幸せな時間になったのです。
私は 大学4回生の春の初めに親友を空に見送っている。この場所は親友との想い出がいっぱいの地で どうしても行くことができない地だった。
どうしても行かねばならない時は いつも雨。
土砂降りだったり 急な雷雨。
その時は 落ち着いて座り 雨やどりしながら親友がそばにいることを感じて 黙って雨がやむのを待った。
この日 空は快晴。桜の花びらが風に舞う中で 音が空に届いたように感じた。
空の親友に届いた気がした。
この日は 自分の人生の中で絶対に忘れないと思う。
御詠歌は本来 声だけで単旋律で完成されたものであり そこにピアノの音は要らないと思っている。
存在できる形があるとすれば 景色としての存在。
景色は見るものだが 聴く景色として。
その気持ちは初めから変わらないが そこに辿り着けない。
景色になりきれない私の演奏(それもまだギリギリ掴めるようになったところの演奏)を心を澄まして感じてくださり その景色をご覧になって共に演奏してくだった。本当に夢のような一日でした。
この想い出の作品はずっと弾き続けている。
そして一巡して落ち着いた時2020年11月18日に気持ち良く録音した。
私の編曲は 自分の中の景色にすぎません。
でも こうして見えたり感じたりする世界も自分の気持ちだから たいせつに思います。
美しい言葉と旋律から見える景色や世界は
少し現実から離れて
優しさをくれたり栄養をくれたり
そこに向かうことから いろんなことに気づけたりする。
その時間はいつも幸せです。
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