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「楊柳」

はじめは点のようなこと
点は 自分でも知らない「自分のピンポイント」だったみたい

知れば知るほどに素晴らしい

知れば知るほどに見えなくなる奥深い世界

気がつけば 我を忘れて取り組んでいる

取り組むことにより 私自身の中で何かもつれていたものがほどけていく

20190523のメモ

この頃 「次は御詠歌をピアノで弾いてみたら」というお話があった。

よく意味がわからなかった。

今まで編曲させていただいたものは御詠歌ではなかったのか

「御詠歌」には『御詠歌』と『御和讃』がある
と知った。初めてこの世界に触れさせていただいてから4年以上が経つのに‥だ。
私がそれまでに編曲させていただいたものは全て御和讃だった。

・御和讃は七五調

・御詠歌は五七五七七の和歌で
名前がついた旋律があり その旋律に和歌をのせて唱えるとのこと

素敵だなと思った。
旋律に名前があることも そして和歌。

御詠歌との出会いの前に 何年にも渡り 私はあるピアノ作品の楽譜を追っていた。
結果的にこのピアノ作品の楽譜は奇跡的な流れで私のところにやって来た。
初めて弾いた時 涙がとまらないほどに琴線に触れた。
この作品もまた和歌に旋律をつけたものだった。


「何でこの作家さんの作品にここまで執着するんだろう」

時に自問したり 恩師に問うたり

「それは あなたと彼のファンタジーが似てるからじゃない?」
と恩師に言われ 先生のこの言葉って射抜いてるよなって 最近になって思うことが多い

そして新しく出会った音楽の世界と重なる部分もあって
やっぱりそうなんだなって
時を重ねながらぐるぐる回って
今にいたる
一見関係のないようなことが「あぁそうなのか」と突如つながったりもする

向かっている間に
とても申し訳ない気持ちになったり 頭に浮かぶ響きの音が見つからず迷ったり

その捉えようのない心の動きも
一つ完成するたびに
そういうことか
と感じる

だからと言って 答えが見つかったわけではないし 答えはずっと見つからないとわかっている

それは自分にしかわからない幸せの感覚で
いわば

相対的幸せではなく絶対的幸せ

20190610のメモ

御詠歌と出会う前に追っていたピアノ作品の理解につながることをいくつか見つけた。
その一つは
西洋的感覚では4小節単位で句読点を感じるものだが このピアノ作品はそうではなかった。
そうではないのに弾いていて腑に落ちる。
漠然と「日本人の感覚なのかな」と思っていた。
この五七五七七の句のためではないかと その時に思った。そのピアノ作品は何の和歌を念頭につくられたかということは誰も知らない。いつかそれもわかる時が来るような気もした。

御詠歌を初めてピアノ編曲させていただくにあたり「楊柳」と「同行二人」の2曲についてお話をうかがった。
両者ともに偉大な作品。そして一部を除いて同じ旋律とのこと。このどちらかから始めてみてはどうかとご提案いただきました。

一部違うということは 大きな意味があるんじゃないか

と思ったし その違いを感じたいと思った。

御詠歌の世界の知識が圧倒的に少ない私は
不躾とは思いつつも
「その二つの作品をお唱えされたものを聴かせてくださいませんか」
とお願いし 快く送ってくださった音源を拝聴し 心動いた。
拍子木の音とともに聞こえてくるお声に耳を澄ますと 声の色から表情が伝わって来た。
そして 今までは「私の伴奏に合わせていただいていたのだな」と思った。
ノンストレスでなければ伴奏とは言えないと思い 申し訳なさと感謝の気持ちでいっぱいになった。


私は両方とも編曲させていただきたいと思った。

はじめ聴かせていただいた時に歌詞を眺めて「同行二人」の歌詞は心情であり つくりやすく感じた。しかし それは 心情であるが故に おかしな先入観によって勝手な脚色をしてしまうことに繋がる気がした。

高崎正風さんが作られた高野山第三番の和歌がのせられた「楊柳」は 情景が浮かんだので まずは「楊柳」をピアノで編曲させていただくことにした。

天が下
照らさぬ隈も
なかりけり
高野の奥の
法の灯

昨夜 寝る前に耳コピ始めました
楽譜にできないものを
自分なりに楽譜にする作業

本当に五線への記譜法って足らなくてイライラする
物足りない
言い尽くせない

歌詞について 漢字と照らし合わせて
もしかしてこの言葉で描かれているものって

と思ってお尋ねのメールはしたらビンゴでした

ほのおの揺らぎ
それがこの音の揺らぎ

ほのおって じーっと見ていると内面に向かう
ホワイトノイズみたいに
優しさとぬくもりがあってね
この光は火の光とは違うので翳が要るな

あぁ その翳か
この音の変異

奥深いわ
こんなんすごいわ

うまくいってもいかなくても シレッとコツコツやる

20190527のメモ

曽我部俊雄さんによる「楊柳」の旋律をお声で拝聴して そこから独特の節回しを記譜していくことから始めた。
この編曲では 日本の音階を使って響きをつくっていった。

つくるのに時間はかからなかった。
とても情景が色濃く浮かんだことと いただいた音源のお声の色合いに触発される部分が多く
探ると合う響きが見つかるので それを書きつけていった。
頭で考えて頭でっかちになることは避け
直感でやり遂げてから アナリーゼして 理論で裏づけたいと思った。

普通にピアノ作品を弾いた後に御詠歌をピアノで弾くと 頭が「あれ?」て感じになるのだけれど スイッチが切り替わる瞬間があり 指が勝手に見つける。
そのことが不思議で楽しかった。

その年の6月10日に完成した楽譜には

遠雷の響き
水気を帯びて

香るように
ほのおはゆらめく

解き放たれて
天女のうた

と書き込んでいる。

「自然にお唱えされている音源」は何のストレスもない状態のもの

そこに
息を感じて同調し 自分がピアノを弾くということが 本来の伴奏で そうすれば背景になれるかもしれない

拍子木と声 そのままの世界
そこに神聖なあの自然の景色をピアノの音でつくる
水気を多分に含んでいて 優しく包む霧に似た空気
「霧に似た」というのは 霧よりももっと細かいから
そういうのを生命っていうのかな

後半の驚きは
歌詞によるブレスではなく また伸ばす声の中の表情がぐらぐら変わっていくこと
それを天女さまの歌のように感じた

歌詞によらない旋律そのものの美しさ

空に帰っていくと言うか
自然に帰っていくと言うか
この心地良さは 日本人の中にある旋律だからなのか

あざとさのない 自然に生まれた旋律

自然に生まれた旋律を人がつくっているということは そのつくり手である曽我部さんの才能は計り知れないです

本当にすごい

20190610のメモ

できあがってから解析した。
一音を除いて 旋法上の問題はないと思った。
その一音は 私の個性として変えないことにした。

そして良いイメージが残っているうちに弾いておきたいと翌日の20190611にまさに遠雷が聞こえる中で演奏しました。

そしてその4日後の20190615に この演奏に合わせてお唱えしてくださりました。

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