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#25琉球舞踊家・新里 春加(しんざと はるか)さん

南城市佐敷出身の琉球舞踊家・新里 春加(しんざと はるか)さん。地元に琉球舞踊道場を構え、伝統芸能の継承と後継者の育成に力を注いでいます。沖縄県内外や海外での公演を通じ、琉球芸能の魅力を広く発信。また、斎場御嶽での聞得大君の行幸を再現した南城市のイベントでは聞得大君役を務めるなど、沖縄の伝統文化を次世代へと繋ぐ活動に尽力しています。 新里さんの前半です。

琉球舞踊家の仕事と活動内容

ーー本日は佐敷のレッスンスタジオっぽい雰囲気のところにお邪魔させていただいております。本日ご登場いただくのはこちらの方でございます。自己紹介をお願いします。

「新里春加(しんざと はるか)と申します。琉球舞踊家をさせていただいてます。」

ーー琉球舞踊家の新里春加さん、ありがとうございます。琉球舞踊家はどんな仕事を。

「そうですね、琉球の芸能の中に舞踊がありまして、それを継承しているものです。舞踊家ですので自分自身の舞台活動と、あとはここの舞踊道場を構えてますので、弟子の育成ですね。県内外、海外などに琉球芸能を伝える活動をしています。」

ーー県内外に芸能活動を伝えるお仕事と。

「そうですね。あと弟子の育成と。」

ーー新里さん、ここはご実家なの。

「隣が実家になってまして、ここは自分の琉球舞踊道場になります。新里坂(ビラ)に構えてます。」

ーーなるほど。これをお作りになって何年目なんですか。

「2009年から舞踊稽古場はスタートしてますね。」

ーー15年

「15年経ったぐらいですかね。」

ーー弟子の方、何人くらいいらっしゃるんですか。

「弟子はですね、出たり入ったり辞めたりもありですけど。今小学生が9人。大人が3人ぐらいですね。」

ーーどんなペースで?

「週に2回。」

ーー週に2回、ここに来て。

「そうです。5時から8時まで。低学年の子はちょっと早い時間に来て2時間、高学年も6時ぐらいから2時間っていう感じですね。私たちは琉球舞踊は稽古場を構えてお月謝をいただいて、教えている演目は琉球王朝の踊り奉行とかそういった時代があったんですけど。」

琉球王朝時代の踊り舞踊とその伝統

「そこで確立した芸能を伝えている、地域の伝統芸能とは少し違ってきます。」

ーー踊り奉行。

「っていうのが昔はあったんですよ。琉球王朝時代は諸外国の方々が国と国のお付き合いでいらっしゃるので、その方たちにおもてなしをするための宴が開かれるんですね。その時に踊り奉行としてのしっかりお仕事としてしっかりされている方が踊りを披露するっていう風になっていて。昔は子供の時から男の子がちゃんとした士族の子どもたちで見た目もよく教養もあって、ちゃんと位もある男の子たちが集められてその子たちが踊りを始めて年齢が上がっていくと女踊りができるようになり、また年齢が上がっていくと男踊りができるようになったりとかして、最終的には三線の歌い手にまわっていくっていう流れがあったんです。」

ーーそういうプロセスを経て三線にたどり着くんですか。

「ざっくりですけど、そういった流れがあった時代はそれは琉球王府が管理して国家公務員的にやっていたイメージですかね、今でいうと。」

ーーありがとうございます。どんな人生を歩んでここに至るわけですか。

琉舞の始まり

「そうですね。私の舞踊の先生は古謝のりこ子先生って知念の方なんですけど、6歳の時にのりこ先生は地元がここ新里なんですね。先生が結婚される前かなぐらいの時に私の祖母が舞踊が好きだったのでその祖母のお祝いの時に姉二人、私三女なので三姉妹でお祝いで踊ろうというきっかけで始まったんです。姉たちは中学校と部活同時に辞めてたんですけど、私だけ残っていてそのまま続けて、コンクールも経て大学が沖縄県立芸術大学で琉球芸能専攻という科が沖縄にありますので、そこを大学院まで卒業して教師免許を家元からいただいて、2005年に免許をいただいて、2009年に稽古場を構えてという感じですね。」

ーー本当に道を突き進んでいくわけじゃないですか。

「そうですね。」

琉舞を続ける動機

ーー 一番の道を突き進もうと思われたモチベーションは何なんですか。

「それが本当にこれしかないんですけど、やっぱり琉舞が好きっていうことですかね。好きじゃないとできないと思いますね。」

ーーなんとなくそうなんだろうなと。

「本当に。辞めたいということもたくさんあるんですけど、辞められないと思うんですよ。だから続けていけたのは、受け継いだものが何か分からないんですけど、ただ身内は誰もやってないんです。私は身内の中にウヤファーフジ(ご先祖様)も舞踊家はいないんですけど。身内も全然舞踊も興味のある人たちじゃないんですけど、何かしらこの踊りが好きで、私だけがそれが子どもの時から現れていて、三姉妹でやってたんですけど、先生は三人の中で一番下の子が踊りが好きだねって言われるような、自覚がない時からずっと好きだったんですよ。私ののりこ先生がすごい優しい先生で、本当にのりこ先生のような先生になりたいなっていうのがあって道場を構えたいなっていう夢があって。それをやってきたっていう感じですね。」

ーー道場を構えたいと思った夢は何歳ぐらいの時ですか。

「小学校の卒業式には琉舞の先生になるのが夢です、って言ってるんですよ。逆に他に夢があったことがないので、だから不思議ですね。これだけです。」

ーーすごいですよね。

「すごいかもわからないんですけど。他にやることがなかったっていうのはあるんですけど。」

ーーいやいやいや、もうそのまま小6からなるぞ、と決めて。

「そうですね。」

ーー中高から大学院までいって、その道ずっとやってるわけですね。

「そうなんです。」

ーー卒業なされて、こちらにこれを作ったんですか。

「そうです、ちょっとした建物があったんですよ、何年も使ってない放置してた建物が。そこをちょっとリフォームというか、建て替えてやってます。」

ーーそうですか。いやいや素晴らしいですね。

「いやいや、そんなじゃないですけど。」

ーーなるほどね。やめようと思ったことないですか。

「たくさんあります。ありますけど、でもそれって舞踊が原因ではなくて自分が原因だったりとか辛いこともたくさんありますので。そういうことがあれなので舞踊が嫌になったことっていうのは、多分自信をなくしたことがいっぱいあるんですけど。自信をなくしたやっていけるかなっていう自信がないことはたくさんあるんですけど。」

ーーそれはどういうきっかけでそういうことになるんですか。

「壮大さ。歴史というか知識というか、ゴールがないんですよ。芸事って何でもそうだと思うんですけど。だから技術を追求しても結局何かしらはどこか未熟ですし、うちの家元とかでも 常にやっぱり研究されてるので、そこの深さとかやっていけるかなとかはあります。芸能で食っていくっていうことの課題が大きいですよね。」

子供の育成とやる気

「舞台活動の時間がすごく取られることと、あとは弟子を育成していくんですけど、やっぱり高校ぐらいまで頑張ってくれるんですが大学ってなっちゃうと内地に行ったりとかして、戻ってこれない子たちとか。育てても育ててもっていうのはありますけどでも。でもやっぱり今の子たち小学生すっごいやる気いっぱいで。楽しいです。」

ーーそうですか。

異国での経験

ーーその活動として 舞踊家として内外にと。外はどの辺まで行くんですか。

「内外にコロナ前とかは県外だけではなくて、海外もたくさん行かせていただいていて。アメリカはニューヨークとかサンフランシスコ、ロス、ウィスコンシン、どこだったかいっぱいあると思うんですけど、香港とか韓国、台湾、フィリピン、中米がメキシコ、グアテマラ、キューバ、パナマ。」

ーー渋いとこ攻めましたね。

「あちこち、一応。南アフリカとタンザニアも行って。結構行ってると思います。たくさん行ってると思います。」

ーーキューバ。

「キューバ、すごかったです。」

ーーよく帰ってくれましたね。

「もういいです、キューバ。」

ーーなんでもういいの、キューバ。

「もう食事がね、ちょっとやっぱり辛かったですね。でも大使館に招待だったので、日本大使館に行かせていただいたので、そこはすごい料理だったんです。でもそこの食材を仕入れる大変さとかもお話とか伺って、キューバの中でも観光客が行ける地区と行けない地区とかっていうのがはっきり分かれてて。行けるところは結構ちゃんと裕福というか、豊かな場所だったんですけど食事とやっぱり環境が整っていないっていうのは目の当たりにして大変だなって思いました。国の違い、日本との違いを思うので、だから行けば行くほど、県外もたくさん行ってるんです。行けば行くほど、私沖縄でいいなってなるんですよ。」

ーーそうでしょうね。

「そうなんです、沖縄が一番合ってるなって。毎朝今散歩してるんですけど。今日も朝5時ぐらいから散歩して海に入るんです。泳ぐんです、帰りながら。海に泳いでずぶ濡れになって家に帰るんです。」

ーー朝散歩してそのまま泳いで、前の海ってことですか。

「家の目の前の海で。私住んでるのはここじゃないので。」

ーーここはお住まいじゃないんだ、なるほど。

「朝1時間ぐらい散歩して、泳いで、ずぶ濡れで家に帰るっていうのをやってるんですけど、それが最高で。」

ーーそんな生活してる日本人の方、僕初めて聞きました。

「そうですか、いると思いますよ。朝は会う方、 散歩の方はだいたい同じ。泳いでる人は少ないです。」

ーー逆にずっと泳げるもんなんですか。

「浮いてる。浮いてるっていうか泳いでますけど。泳いで浮いて。そんな長い時間じゃないですよ。」

ーーなんかいいですね、その生活。

「そうなんです。治安もいいし、気候もいいというか。こんな時間、時期でも 11月ぐらい全然泳げるので12月でも泳ぐかもしれないです。朝日が遅くなっていくので時間が、そうですね、わかんないですけど。。」

琉球海脈神話と南城市の文化

ーーそうですか。なんか素晴らしい生活をやってらっしゃいますね。ありがとうございます。さて、次の質問に行きたいんですけれども。南城の好きなところ。

「そうですね、南城市はやっぱり琉球開闢神話に出てくるそういう御嶽とか、斎場御嶽はじめ、たくさんありますし。尚巴志ですとか、歴史・文化・自然のまちなので、芸能をしている私からすると、本当にこんなところで生まれ育って本当に嬉しい、ありがたい環境だなって、とっても思ってます。」

ーー歴史 、文化、 自然にあふれている。

「そうですね。」

ーーそこがやっぱり南城の一番好きなところ。

「はい。あとはまた地元の市の職員の方たち、こうやって芸能とかすごく大事にしようって意識があるので。だからシュガーホールは洋楽ホールですけど、そこでたくさん舞踊の舞台もたくさん出させてもらったりとか。祭りも今度11月にありますけど、それでもたくさん舞踊家として関わらせていただく機会があって、だから本当にいろんなところで、地元で南城市民としてもともとは佐敷でしたけど 佐敷町民として合併して南城市になったことでまた仲間が増えたんですね、結局。四町村が合併すると人材が増えたので、もっとできることが増えて南城市だからできるよねっていうことを たくさん経験してきたんですよ。南城市民の舞踊家、芸能家だけで舞台が打てるとか。そういういい人材がたくさんいるので、合併することでメンバーが増えて南城市民だけでできるということも誇りですし、それを思う仲間たちはやっぱり南城市だから いいよね、っていうのが合言葉のようにやってきているので南城市だから育ててもらったかなと思っています。」

ーー人材が豊かだった。

「そうですね。」

ーーありがとうございます。

南城市の交通事情と停電問題

ーーあえて皆さんに聞いているんですが、南城の好きでないところ。

「そうですよね。ちょっとこれいろいろ考えたんですけど。やっぱりどうしても交通の面がすごくあれなんです、私のこの場所も新里坂(ビラ)なので子どもたちが学校帰りに通うっていうのはなかなか自分で歩いてくるっていうのが難しいというか。バス停も近くにないですし。バス停がないだけじゃなくて、バス、普通の東陽バスとか沖縄バスとかいろいろあると思うんですけど、そういうバスの時間も便が少ない、とか。そういうのがすごく難しいですね。」

ーーなるほど。交通の便がいまひとつ。

「交通の便が悪い、というか市内だけでもあれですけど市と外もつながるのが少ないというか。」

ーー市と外ね。

「南城市内と市外とつながるのもやっぱり少ない、田舎が故に。あと停電ですかね。台風の時に停電がすごい。」

ーー言ってました、どなたかも、停電が大変だと。

「停電大変なんですよ。」

ーー3時間ぐらい止まるんですか。

「3時間どころじゃないですよ。」

ーーどころじゃない。

「3日とかですよ、止まる時はね。本当に。」

ーー今ギャラリーの方が深く頷きましたね。

避難の必要性

ーー3日。

「3日とか本当に。だから特に知念の方たちは台風来るって直撃ってわかったらもう家から出てホテルで過ごすとかっていうのもよく聞きます。私も本当にこれあと1日もし停電が続くなら私も行こうかなって思ったぐらいですね。数日は辛いですね。」

ーー暑さ。

「暑いですし、窓も開けられないですし。建物によってはポンプの引き上げができないと水も止まっちゃうし。なんかいろいろ問題あります。食材もなくなるし、スーパー行っても何もないし。」

ーーなるほどね、3日はしんどいですね。

「夏だったら辛いですね。」

ーーそりゃそうだわ。

「そうですね。もっとある時もあるんじゃないですかね。南城市内でも場所にもよりますけど。」

ーーなるほど、ユインチホテルさんは自家発電なんですよ。

「逃げたいですよね、温泉入ってとか。」

ーーいつ行っても快適な状況らしいですね、なるほど、ありがとうございます。

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