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イギリスは海賊でのし上がる
17世紀から20世紀半ばにかけて世界に冠たる地位を築き上げた大英帝国ですが、16世紀までは毛織物くらいしかめぼしい貿易品はありませんでした。人口は5百万人に満たず、ポルトガルとスペインをあわせた1千万人、フランスの16百万人と比べて劣勢だったのです。折しも宗教対立が激しく、プロテスタント国家の英国はカトリック国家のスペイン、フランスに攻撃されるおそれがありました。
そこで富国強兵を目指して英国が邁進したのが、国策としての海賊行為です。例えば、後述のドレークの海賊行為は、女王エリザベス1世に国家予算の3年分に相当するあがりをもたらし、女王はそれを宮廷歳費の他、借金返済及びレバント会社などの海外貿易会社の設立に回し、貿易立国としての経済的基盤を築いていったのです。
ジョン・カボットの北米探検
ジョン(ジョヴァンニ)・カボットはヴェネツィアから英国への移住者で、北米を中心に冒険航海をしました。しかし、その探検について詳細な記録は残されておらず、実態があまりわかっていません。
1497年に第一回の航海でケープ・ブレトン島、ニューファウンドランド島を発見し、コロンブスが南米大陸を発見したのと同年の1498年に第二回の航行でデラウェア湾やチェサピーク湾、ハッテラス岬のあたりを航行したのではないかと推測されています。このような曖昧さはありながら、カボットは北米大陸の「最初の」発見者であると考えられています。
海賊ドレーク
フランシス・ドレークはマゼラン艦隊に次いで世界周航を果たした人物として世界史の教科書にも載っています。しかし、実のところ彼の本業は女王陛下の海賊であり、カリブ海を中心に略奪行為を生業としていました。
当時、スペインが南米じゅうから莫大な金銀を集め、スペイン本国に送り届けていました。ドレークが狙ったのはこのカリブ海のスペイン船であり、ポトシ銀山で産出される当時の世界通貨たる銀を中心に、金や砂糖、ワインを強奪しました。
偶然の世界周航
ドレークの世界周航は、海賊行為の一環として行われたものです。ポトシ銀山の銀はペルーのリマから積み出され、太平洋側を北上してパナマで揚陸し、パナマ地峡をラバで大西洋側に運んでから船でキューバに集積します。ある程度の量をまとめ、定期的にスペイン海軍の護送船団でスペイン本国に運び込んでいました。ドレークは銀の輸送ルートに関する情報収集を行い、警備上の弱点である太平洋側の輸送船を襲撃する計画を立てます。
1577年12月にプリマス港を出港し、マゼラン海峡を通って南米大陸西岸を北上します。情報収集しながら襲撃の機会を伺い、1579年3月についに大量の銀塊を積んだスペイン船の拿捕に成功します。
帰り路は、ドレーク海峡のあまりの凄まじさに来た航路を戻るのを諦め、地球一周してイングランドを目指すことにします。季節風にのって太平洋を横断し、マルク諸島で大量のクローブを買付け、喜望峰周りで1580年9月イングランドに戻りました。
アルマダの海戦
ドレークはその後もカルタヘナやサント・ドミンゴ、フロリダ、カディスなど、スペインの植民地と領土を次々と襲撃し、略奪をしています。これらの海賊行為によってスペインと英国の関係は全面対決を避けられないほどに悪化し、ドレーク船団はスペインとの艦隊決戦でも英国海軍(主力はほぼ海賊)に組み込まれ、1588年7月の無敵艦隊撃破に一役買いました。
国家的英雄に祭り上げられたドレークは、最期はカリブ海での航海中に亡くなりました。ドレークは、カリブの海賊の草分け的存在だったと言えます。