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伊達家臣団図鑑その1 鮎貝盛次
はじめ宗重。兵庫、安房と称し老いて日傾斎と号した。
藤原姓、鮎貝定宗を似て祖とし、羽州置賜郡鮎貝城に住む。
定宗の子兵庫頭盛宗が晴宗に仕えその嫡子が盛次である。
天正15年、最上義光の勧めで嫡子盛信が謀反を起こし、城に拠って兵を挙げた。
盛次は事態を政宗に告げてこれを攻めた。
のちに屋代景頼の討伐を受け鮎貝城は落ち、宗信は逃亡する。
政宗は盛次の忠義を賞し次男宗益を家督に指名し、元通り一家の上席に列した。
その子孫は奉行となり千石を治めて現在の気仙沼に住んだ。
この頃伊達包囲網が敷かれ政宗は危機に陥っていた。
そこに謀将、最上義光の謀略にかかってしまう鮎貝宗信。
政宗はもう終わりだと思ったのでしょうか。
信長包囲網の松永久秀のようなイメージの人です。
この手の話は結構あります。
政宗は敵対したものには非常に厳しい処遇を行いますが、忠臣には最後まで面倒をみています。
鮎貝といえば裏切り者のイメージでしたが、次男が家督を継ぎ一家に列したというのはあまり知られていない事だと思います。