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エイリアン: コヴェナント-無意味を創造するもの

映画と言うのは無意識の産物だと思う。民族的にも社会的、経済的にも、映画はまさに人間に向かって投影する。エイリアン: コヴェナントはエイリアンシリーズで初代エイリアンを担当したリドリー・スコットがプロメテウス に続きメガフォンを取ってる。ここでエイリアンシリーズの映画批評もリドリー・スコット論を語る気はない。他の作品からの引用だの、監督のインタビューだの、哲学、民俗学、心理学だのと言った道具はこの映画を語る上で余り重要ではない、というか映画を語る上で映画史などなんの意味があるのか分からない。映画は急に現れる幽霊のようなもので、ある意味傑作も駄作もない。すべての映画は横並びになってると思えばよろしい。エイリアン: コヴェナントのアメリカ映画評論家の点数は平均65点であり、どちらかと言えば落第点である。この映画をここで褒める気もなければ、貶す気もない。一番批判されたことが一番重要だということを書きたい。
2104年、植民船コヴェナント号は、船を管理するアンドロイドのウォルター、冷凍休眠中の乗組員15人と2千人の入植者、1千体以上の人間の胎芽を乗せ、惑星「オリガエ6」に向けて航行中といのが物語の始まりである。
そこで植民船コヴェナント号の乗務員は数々の間違いを犯す。
冷凍休眠とうい技術は数々のSFで採用されてきた。夏への扉、三体、アバター、インターステラー、2001年宇宙の旅、SFの定番と言っていい。論理的には破綻している技術であり、タイムトラベルと同じく絵空事であるが、SFファンはこの技術=ファンタジーを信じている。SFファンに限らず人類は信じていると思ってよろしい。この冷凍休眠が冒頭に出てくることを覚えておこう、破綻した論理を信じる人類。余談であるが、冷凍休眠の宇宙探索隊がそのまま冷凍休眠の失敗により、腐敗してそこから蟲が飛び立つSFが好きである。もちろんこれは筆者の想像である。
冷凍休眠の設定自体の間違え、次に乗務員のテネシーが謎の信号を受信する。オラム船長は、謎の信号先の惑星の調査を決定。科学者のダニエルズは、不確実な可能性より元の計画を遂行すべきだと主張するが、彼はそれを押し切って調査隊を編成する。 人類の未来が掛かっている計画を簡単に変更。そもそもこのオリガエ6計画の無計画ぶりが露見する。
異星に降り立つが、何の調査もなく防菌ヘルメットも被らず外に出て行く間抜けぶり、次々にドジを踏むコヴェナント号の乗務員たち。彼らは選りすぐりのエリートな筈がこの体たらく、観客のイラつきは高まる。そこに現れるのがプロメテウス号で遭難したアンドロイドの デヴィッド。彼がこの異星のエンジニアと呼ばれる人類の祖先を殺人兵器である黒い液体をばら撒き、エンジニアや動物を全滅させた。その後エンジニアの建物を研究施設とし、黒い液体を用いた遺伝子操作をエンジニアやネオモーフの身体で繰り返し、人類に代わる「完璧な生命体」の創造を研究していた。
アンドロイドの デヴィッドは人類にイラつく。こんな間抜けが自分の創造主であることを。神も同じである、神が世界を創造したのではない、人が神を創造したのである。もし神が世界を創造したのなら、動物も植物も神に畏服する筈であるが、その様子はない。神の創造主である人間(客観的事実)があまりにも愚かであることに神々はイラ立つ。
ここでデヴィッドと神と観客の視線は合う。愚かな人類を全滅させ、自分が創造主になる。コピーがオリジナルになる。息子が父親を殺す。エディプスコンプレックスの誕生である。監督が散々乗務員=人類の間抜けさを次々に見せて行く理由はここにある。オリジナルという意味は邪魔なのだ。オリジナル=創造主は余りにも愚かな存在であることに気づく。リドリー・スコットがどこまで意図的にコヴェナント号の乗務員たちの間抜けぶりを描写しているか分からないが、映画の無意識はそうさせる。神は意味を無効化するエイリアンを創造する必要がある。エイリアンの怖さはこの無意味性にある。ひたすら虐殺、捕食もせずに。コピー=息子=神=アンドロイドは人間と言う意味にうんざりなのである。どのホラー映画の怪物の中でもエイリアンは、因果関係を拒む。復讐とか、宿敵とか、生態ピラミッドとか言う理由は彼らには存在しない、人間=意味が存在する限り殺傷するのみである。そこにはコミュニケーションは成り立たない。他のホラー映画の怪物は何かしらの理由=因果をもって存在している、ゾンビであれば人間を捕食する、ジェーソンであれば先天的な病により顔が奇形となっており、それが殺人鬼へ変貌させた最大の要因など、彼らは余りにも人間的な理由を持つ。エイリアンは意味を食い尽くす。エディプスコンプレックスさえ食い尽くす。オイディプス王に登場するスフィンクスがオイディプースに投げかける謎の問いは「一つの声をもちながら、朝には四つ足、昼には二本足、夜には三つ足で歩くものは何か?」答えは人間である。赤子、成人、杖をつく老人。しかしもう一つの問いは「一つの声をもちながら、朝は二本足、昼には八本足、夜には三つ足で歩くものは何か?」答えはオイディプス王その人ある。旅に立つ時オイディプス王は二本の足で歩き、父ラーイオス殺害後、実母であるイオカステーと交わり(SEXの時4つの腕、4つの脚が絡みある)、それを呪い自らの目をえぐり、盲目となり杖をつき放浪の放浪の旅に出る。要はどの物語であれ、命題であれ答えは常に人間であり、自己=オイディプス王である。その意味で神=アンドロイドは同じ存在線上にいる。不気味なもの( unheimlich)」とは本来「親密なもの( heimlich)」である。つまり、自己投射にほかならない(フロイト)。人間の自己投射である神=アンドロイドもエイリアンに取って目障りな存在である。
この因果を断ち切るには絶対的無意味であるエイリアンが必要になる。
次回作のブレードランナーとエイリアンの融合作は結末を予想出来る。ブレードランナーのレプリカントは父探しの物語である。レプリカントは間違いなくエイリアンに惨殺される。余りにも人間的であるから。
エイリアンの後継者はいる、同じくリドリー・スコットが監督したハンニバルのレクター博士である。
Hannibal Lecter, the claim that Hannibal’s monstrosity is the result of unfortunate circumstances is rejected: “Nothing happened to him. He happened.”
レクター博士にとって人間は余りにも意味の世界の虜になっている。それを解放するのが彼の巡礼である。
リドリー・スコットの想像したvilan たちは無意味の永劫回帰である。Black Rain 松田優作演じるサトウもその後継者に入れよう。
死だけが解放である。
ロマン主義の誕生には絶望がある事、その最終形態は抽象化=無意識であり、そこには判別出来る具象=意味は無い。ドロドロに溶けた非有機体が存在するだけである。それは宇宙の最終形態に他ならない。

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