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【Coffee Break #2】年越しは何を見ますか? - 村化の正体 -
皆さん、こんばんは。Bishのヒデヨシ社長です。
今日は、大晦日ですねー!
蕎麦食いましたか?紅白見てますか?
今そんなこと考えてて、ふと思い立ったことがありました。
年明けに学校の友達や職場の同僚なんかともし「大晦日、紅白見ましたかー?」とか聞いても、話が盛り上がる人ってどれくらいなんだろう?
(蕎麦はアレルギーとか無ければ結構食ってるんじゃないかと思うけど)
別にリアルに紅白見てるかどうか把握して、「NHK払ってます?」みたいな話をしたいわけじゃなくて、「多様化」について思うことがあったんだ。
年末年始とかって、まぁほぼほぼ全員が経験するような祝祭というかイベントで、ちょっと前までなんか家族で集まって飯食って紅白見て、「ボーンボーン」っていうナンチャラ厄除大師(?)の初詣CM流れて、あけおめして寝よっか見たいな感じが日本のデフォルトだったと思うんだ。
でも今日とかってどうだろ。RIZINとかガキ使とか嵐のラストライブとか、パーティーとか(こんな状況だからあんま公には言わないだろうけど)、まぁそれ以外にも色々それぞれの過ごし方で多分過ごしてるよね。
(特に、コロナ対応に追われている医療従事者の方や発熱センターの方、本当にお疲れ様です。)
インターネットで物理的な距離なんか超えて趣味嗜好の合う人たちと繋がれるから、そいつらと繋がってそれぞれが好きなことして盛り上がる感じが今だったらできるもんね。
自分が本当に好きなこととかやりたいことやれて、それで盛り上がれる仲間と楽しくやれて最高で、そうできるからこそ自分の好きなこと以外はやりたくないし、付き合う必要の無い人間とは付き合う必要が無い。
そんな風に思うことも多々あるんじゃないかな。
人間ってそもそもが社会的な生き物であるはずっていう前提で、今だとマイノリティでも物理的な距離を超えることができるから成立するし、マイノリティとか関係なく発信する場もあるから認められているような気もする。
こういうことで、今まで社会に十分に認知されずに苦労を強いられてきた人たちが助かったりすることも出てきているという点では進歩であり、良いことなんだと思う。
一方で、発信という表現が誰でもできるようになって認知はされるようになったけれども、本当の意味で「受け入られる」ということとはまた違うし、さっき「自分の好きなこと以外はやりたくないし、付き合う必要の無い人間とは付き合う必要が無い。」とも書いたけど、「受け入れる」って次元に到達するのはつまるところ難しいってことなんじゃないかと思う。
言い方変えれば、「別に色々な考えや趣味嗜好や状態があるのは良いんじゃない?でも、オレらは気の合う奴らで集まって、合わない奴との関わりはなくて良いじゃん。」って感じかな。
それが「村化」の正体なんじゃないかな。
どう?賛否両論あるだろうけど、おそらく理想郷みたいなことを思い描いている人には期待外れになるんじゃないかとオレは思ってる。
というか、何かのプロジェクトで同じビジョンで一定期間協力して作り上げるってのと同じように、一時的なものなんだろうと思う。
「生活」ってことが入ってくると、時間軸が圧倒的に長いし、例えば自分とパートナーは好き好んでそのコミュニティに属してたとしても子供ができて子供がそこは嫌だってなったり、あとは結局人数集まると木っ端役人みたいな野郎が出てきたり、何かの拍子に合わなくなったりね。
結局どこへ行ったってそういうのは無くならないよね。
だからずっと移動していくのか、ある程度理想は追い求めすぎないのかどっちかになるよね。
でもずっと移動していくってのも結構大変って感じる人も実際多いだろうし、必ずしも自分が属したいコミュニティが見つかり続けるわけじゃないだろうね。
結論、好きなことや気の合う仲間も大事だけど、目の前のこと目の前の人を好きになる努力とか時には我慢することを一切しなくて良いわけじゃないから色んなタイプの人と付き合ってみたり、いろんな環境で楽しみを見つけて自分自身楽しんでいくっていうスキルもこれからより一層大事になってくると思う。
まずはね、年末だし目の前の人に日頃の感謝でも述べるのが良いのかもね。だからオレは今、妻に言う。
「本年は、特段のご高配を賜り、厚くお礼申し上げます。来年も相変わらぬご高配を頂けますよう何卒よろしくお願い申し上げます。」←えっ??