プチ史資料紹介「大伴千室の歌と木簡」
「プチ史料紹介」では、既に公開されている史資料で、筆者が気付いたことがあるものの、ちゃんとした論文にするほどではないもの、推測の域を出ないお話などを書いていきます。
※写真は、吉野歴史資料館から「秋津野」候補地である御園地区(宮滝から吉野川をはさんだ対岸にある)を遠望したもの。
今回は、ある万葉歌が詠まれた状況を推測するうえで、一般に「二条大路木簡」と呼ばれる木簡群が手掛かりになるのでは?というお話をご紹介します。
なお、このお話は、筆者が奈良県立万葉文化館に勤めていた時に気付いたことで、講座でお話ししたり、万葉文化館友の会の広報誌でご紹介したことがあります。
かくのみし 恋ひや渡らむ 秋津野(あきづの)に たなびく雲の 過(す)ぐとは無しに
大伴千室 『万葉集』巻4・693番歌
※中西進『万葉集 全訳注原文付』1、講談社文庫、1978年 より
この歌は、一般的には大和国吉野の秋津野を詠んだ歌だとされています。
しかし、歌が読まれた状況が記録されていないため、紀伊国の秋津野の可能性もあると指摘されている歌です。
今回のお話は、この歌に詠まれている「秋津野」は、二条大路木簡から類推すれば、やはり大和国吉野の秋津野の可能性があるのでは、ということを推測していくものです。
この歌が大和と紀伊、どちらの秋津野を詠んだものかを検討するには、この歌を詠んだ大伴千室の経歴について調べるのが効果的でしょう。
千室は、『万葉集』巻20・4298番歌の左注に「左兵衛督」とあり、天平勝宝6年(754)の役職だけが知られていました。
しかし、平城京の二条大路に掘られた濠から、彼の名と思しき文字を記した木簡が2点、出土しています。
□〔大ヵ〕伴宿祢千室
□□〔祢ヵ〕千室
(ともに平城京左京二条二坊五坪二条大路濠状遺構(北)SD5300(6AFFJF11地区)出土)
※奈良文化財研究所「木簡庫」より
これらの木簡が出土した遺構は光明皇后の宮の付近にあり、同じ地区からは皇后宮職に関わる木簡が出土しました。中でも、皇后宮の警備に携わる兵衛や中衛に関わる木簡が多く見つかっています。
皇后宮職 合
并中衛歴名如件謹以申聞謹
左兵衛府
(全て平城京左京二条二坊五坪二条大路濠状遺構(北)SD5300(6AFFJF11地区)出土)
※奈良文化財研究所「木簡庫」より
また、千室の木簡が出土した濠状遺構SD5300からは、天平8年(736)のものと思われる芳野(吉野)行幸に関わる木簡や「従駕」と書かれた木簡も出土しています。
そのSD 5300は二条大路の北側に掘られた濠状遺構ですが、SD5300から二条大路をはさんで南の位置にある濠状遺構SD5100からも、芳野行幸に関わる木簡が出土しています。
(表)芳野幸行用貫簀
(裏) 天平八年七月十五日
(表)芳野幸行貫簀 不用
(裏) 天平八年七月十五日
(ともに平城京左京二条二坊五坪二条大路濠状遺構(南)SD5100出土)
※奈良文化財研究所「木簡庫」より
SD5300・5100から出土した木簡群は、天平7〜8年のものが中心を占めており、千室の木簡もその頃のものである可能性があります。
さて、天皇や皇后の行幸啓には、兵衛らが警護をすることになっていました。
さらに、内六位以下、八位以上の官人の嫡子で、上・中・下等のうち中等と判断された人物は兵衛になる決まりもあります(養老軍防令47内六位条)。
後に左兵衛督になった千室が、それ以前にも兵衛の任にあった可能性もなくはないでしょう。
これらのことを踏まえると、以下のような可能性も考えられるのではないでしょうか。
(A)二条大路木簡に見える「□伴宿祢千室」から、天平8年の芳野行幸の時期前後に千室が兵衛等の職にあった可能性。
(B)千室が兵衛等として天平8年の芳野行幸に付き随ったとすれば、その際に、あるいはその際のことを思い浮かべて693番歌を詠んだ可能性。
以上のようなことを主張したくなりますが…断定するに足る材料がないため、「その可能性もある」程度のことしか言えません。
また、この歌の題詞には「大伴宿祢千室歌一首 未詳」とあり、「未詳」は、”この歌が千室の作によるものなのか、歌い継がれた歌を千室が歌っただけなのか不明”という意味に解する研究者も少なくありません。
やはり、この歌が詠まれた細かな状況については、(A)(B)のような可能性はあるものの「未詳」とせざるを得ないようです。