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父の形見を、ひとつだけ

葬儀屋さんに「何か着せたい服があれば」と言われ、着せないまでも棺の中に入れようかなと思って洋服ダンスを開けた。
長年サラリーマンとして働いていた父はいつもスーツを着ていて、しかもテーラーで仕立てていた。出張には三つ揃いを着てとてもカッコよくて、大好きだった。
まだスーツ量販店もなかった頃ではあるけれど、吊しのスーツは売っていたはずだし、父はごく普通の体型だったのでフルオーダーのスーツはぜいたくだったろうと、今は思う。だけどそういうところは譲らない人だった。

クローゼットからおそらく20年以上着ていないであろう、三つ揃いのスーツを出して、似合いそうなネクタイを一つ選んで沿える。
洋服ダンスの引き出しを開けると、凝った模様編みのカーディガンが出てきた。私が高校生のとき編んだもの、まだとってあったのか。
これも棺に入れることにする。

小物をしまう引き出しに、見覚えのある万年筆が1本しまってあった。
父は何十年も日記をつけていて、使うのは必ず万年筆。もっとも最近はボールペンだったようだけど。
次女を里帰り出産したときに、お金を渡しても受け取らないだろうからと、伊勢丹で万年筆を買って贈った、そのときのものだった。
インクカートリッジが空っぽだったので、予備のインクがなくなったところで使うのをやめたんだろう。

ほかには何もいらないから、この万年筆だけもらって帰ろう。
なくさないようにバッグのファスナー付きの内ポケットに入れて、帰宅した。

あれから2ヶ月。仕事帰りに伊東屋の前でふと思い出した。
そうだ、万年筆のインクを買わなくちゃ。

色というより色の名前が気に入って買った

カートリッジをセットして、ちゃんと書けることを確かめて、仕事机の引き出しにしまう。
写真も位牌も花も飾らないけど、ここにお父さんの万年筆があれば、私にはそれでじゅうぶん。

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