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[小説]ながれながれて(後編)
ほりごこち
仏像が日本にやってきてから1500年の間、御像の数だけあったであろう幾多のエピソード。仏像を造ったり修復したりする造佛所で、語り継がれなかった無数の話。こぼれ落ちたそんな物語恋しい造佛所の女将がつづる、香りを軸にした現代造佛所私記。
前回の記事:ながれながれて(前編)
香りに誘われて
すっかり寝る支度を整え、少女は再び机の中央に文箱をすえた。
さきほどとは違い、心は平静だ。机の上を仏壇に見立て、燭台のロウソクに火をつける。折れた線香を近づけると、ジジジ……と音を立て、間も無く細い煙が立った。
少女は、人生の今日という日に突如現れた尼僧の存在を近しく感じていた。今この瞬間は誰よりも少女の心の多くを占めていた。
尼僧が使っていただろう道具たちに自分も触れている。尼僧と言われたその人がいつの時代か生きていた、そして今はいないのだという実感が、少女を切なくさせていた。
が、その感傷も、あっというまに香りにさらわれる。
少女は、これまでに嗅いだことのない芳香を体験し素直に驚いていた。
(なんていい香り……。すご〜い!お母さんがいつも買ってくるのと全然違う)
香りですっかり少女らしい明るさを取り戻し「ニソウさん、どうか幸せでいてください、子孫の私もしっかり生きます」と、子供の頃から仏前で言ってきた言葉を、そのまま尼僧に捧げた。
折れた線香はすぐに燃え尽き、火の始末をした少女は安堵して床についた。
********************
どれくらい時間が経ったのか分からない。
にわかに外で大勢の声がして、慌てて居住まいをただした。今日は大事な日なのに、どうして自分はぼうっとしていたのか、そんな自責の念がかすめる。
あちこちから、楽の音や異国の言葉、途切れることのない言祝ぎの挨拶がかわされている。なんと賑々しいことだろう。
「間も無く供花も揃いますよ。恵葉、随分お疲れのようですね」
振り返ると、剃髪した中年女性が双眸にいたわりを込めて近づいてくる。
(えーと……誰だったっけ……親しい人だった気がする。そうだ……慈蓮尼さま)
恵葉と呼ばれた尼僧は、奉公している寺院での御本尊の開眼供養会のため、この数ヶ月は文字通り走り回っていた。無事当日を迎え、やっとひと心地ついたところでつい居眠りをしていたらしい。
(あの御方はもう席につかれただろうか)
背筋の伸びた後ろ姿が、ぼんやりと恵葉の胸の内に現れた。
仏師との出会い
一年前の春先、境内に仮設の作業場が設けられた。どこから集められたのか、工人たちが本尊の造顕のために寺にやってきて、静かな境内が街路の様になった。
寺辺にいる尼僧たちは、雑用を手伝いながら生活をやりくりしていて、寺に出入りする工人たちの世話役もその一つだった。
夏も終わろうかという頃、恵葉は作業場に届け物をした。カンカンカン、カンカンカン、と乾いた音が響いている。声をかけるが聞こえないらしい。
入り口からそっと覗いた恵葉は、板の間の中央に目が釘付けになった。まだ粗々しくはあるが一目で御仏とわかる姿が現れたのだ。ついこの間運び込まれた材木が、まさに御仏に生まれ変わっている。初めて目の当たりにしたその工程に、言葉を失った。
「お姿が見えてまいりました」
役目も忘れて作業場に立ち尽くす尼僧を気遣ってか、受け取りに出た男が恭しく言った。
「このように、このように仏様が……まぁ……。そしてこの香り……」
「初めてご覧になりましたか。ヒノキの匂いはすごいでしょう。よかったら奥へどうぞ」
男の声にハッと我にかえり、恵葉は慌てて荷物をおいて持ち場に戻った。
以来、幾度となく使いをするうち、あの男が仏師であることを知った。見れば見るほど、聞けば聞くほど、御仏を木から彫り出す仏師という仕事に魅せられた。
造仏による業の償却だろうか、彼らのなんと力強く、生き生きと、明るいことか。自然と祝福の気持ちが溢れた。寺を包むヒノキの香りは心を鎮め、軽くしてくれた。「これも造仏の功徳か」老僧たちもいつになく活気付いていた。
恵葉はいつしか、あの最初に出会った仏師の姿を探すようになり、ふとした時にも思うようになった。(あの御方は今日もノミをふるい、鉋をすべらし、無心に木に向かっておられるだろうな)
仏像を通して御仏に心身を投じる仏師の生き方が、眩しくも羨ましくもあり、裏切り難い尊びの思いが恵葉を幸福にした。
間も無く完成という時期、すでに冬も終わりに近づいていたが、朝夕は指先がかじかんだ。
寒さがゆるんだ午後、道具のことを話したのが仏師との最後のひとときとなった。
手のひらにやや余るくらいの小さな刃物を、こうやって使うのだと仏師が空気を軽く削るようにしてみせた。
「主に仕上げに使うんです。童の頃から使ってきたものですからすっかりすり減ってしまいましたが、仏様のお姿が決まる要となる刃です。私には欠かせない道具の一つです。」
せいいっぱいやわらかく、恵葉が心をこめてうなづくと、無言のうちに仏師と目があった。
かすかに春の香りを含んだ風が流れ、夢中で仏師に奉じた四季が脳裏にめぐる。
「どうぞ、お納めください。」仏師はその小刀を捧げ持って言った。
「しかしこちらは……大切なものとお伺いしたばかりです。」
「いえ、恵葉さまが持っていてください。」穏やかだが有無を言わさぬ響きだった。
まだ手のぬくもりののこる小刀を握り、観念して恵葉は言った。
「一生、一生、大切にいたします。」
「ははは、大げさにおっしゃる。よく切れますので気をつけてお使いください。どうぞ、いつまでもお元気で……」
「私も、いつもいつも、お祈りしております。祈っております、あなた様のお幸せを……」
あれから恵葉は開眼法要の準備に忙殺され、いつの間にか作業場も解体されていた。仏師とはそれきりとなっているが、本日の法要にはきっと参列するだろう。
(もしかしたらまた会えるかもしれない、いや会えないかもしれない、だがもうどちらでも良いな……)
はっきりと明るくなった恵葉の横顔をみて、善良な慈蓮尼は安堵の笑みを浮かべた。
二人は連れ立って本堂へ向かった。雅楽や鳴弦の響きのなか、異国の香が甘く体を満たしていく。広間へと向かう回廊を歩きながら、恵葉は人々の顔を確かめる。遠くに、仏師の姿を見たような気がしたが、春にかすんで心もとない。
──もし、私が新しい生き方を選べるのなら、もっと自由に、素直に人生に飛び込みたい──
虚空に誓うように浮かんだ言葉の余韻とともに、少女は目覚めた。ずっと前から、そう誓って生きてきたような気もしたが、尼僧の思いなのか自分の思いなのか分からないでいた。
線香の芳気がかすかに部屋に溶けている。
「不思議な夢だったなぁ……」
少女が生きた15年の記憶の中に、心当たりを探してみた。
だが、記憶をいくら辿っても、寺の内部や仏像の制作工程、妙なる音楽、甘く雅な香り、異国の舞、弓弦を弾く儀のいずれも、少女が潜れる意識の中には見当たらなかった。
(ニソウさんのことを思い過ぎたせいなのか、線香の香りのせいなのか)
尼僧は実際にはいなかったかもしれない、文箱とその中身が古い昔のものなのかもわからない、何一つとして確かなことはなかった。
しかし、夢に出てきた尼僧に呼応した少女は「わたしたち」を獲得し、素直に受け入れた。
仏を求めた「わたしたち」と
昔むかしと今
その間で語られないまま消えていった星の数ほどの物語。
これも、その中のひとつ。
吉田沙織
高知県安芸郡生まれ。よしだ造佛所運営。看護師と秘書を経験したのち結婚を機に仏像制作・修復の世界へ飛び込んだ。夫は仏師の吉田安成。今日も仏師の「ほりごこち」をサポートするべく四国のかたすみで奮闘中。
https://zoubutsu.com/
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編集協力:OKOPEOPLE編集部