0924
新しい仕事を始めて数日が過ぎた。
久し振りの仕事に身体が驚いていて、既に満身創痍、脳はハイになりおかげで睡眠に支障をきたしてる。寝ても何度も夜中に起きてしまったり、眉間に皺を寄せ頭部にメチャクチャ力が入った状態で寝ていたりしている。ゴルゴかな。
今までの経験が無駄じゃなかったとまでは思えないしすべてを肯定できるとまでは今はいかないけれど、なんだかここに来て好調に進みそうな香りを漂わせてる。
私は大学を卒業してから6年間の会社人生活での経験と、幼少期から長く続いた心の隔たりと閉ざした哀しみについて後悔とか絶望があり、そういう暗い経験も含めて慎重に振り返ってきたり気持ちを整理した期間、ここ三ヶ月で休職し長期間休んだことが、一斉に功の面に翻って「今」に整列してきてくれてる感じがある。
性格や性質は、自分という人間の構成要素の一つに過ぎず....可もなく不可もなく好きでも嫌いでもない、と思っていた。元素みたいな、料理でいうところの野菜が素材みたいな、ただの要素。
今までは、生きている上で長年抱えてきたモヤモヤした「何か」に、とにかく名前が欲しい・理解したい・あわよくば解放して楽になりたい、の方向で自分の持つ性質や性格の特徴の根拠を調べていたにすぎなかった。それは手も足も出すこともぎこちない所謂世間の通説に全く適用できない自分の生活を、少しでも生きやすくなるようにする為の手段であり苦肉の策でもあった。そうやって得た情報を受け入れたり、自分のものとして体内の収まり良い位置に置いていくことに掛けた年月は結果的に長くなってしまったけれど、必死になって右往左往した期間は、時が経ち新しいことを始めた今になって、ようやく価値を帯び始めている。その事が嬉しくありがたい。
危ういことや不安なこともきっとなんとか出来る、大丈夫っぽいなと思える。自信も沸々と湧いてきた。
自分のことを美人だと思うチャレンジを最近初めて、それも自己肯定感と自信を高める良い働きになってるとも思う。毎日、「私は美しい」と自分に声をかけるようにしている。「美人」と一言で分かりやすいから言うけれども、自分の容姿に愛着を持つということ。
容姿も結局自分を構成する素材のひとつにすぎなくて、それが美醜かどうかは自分次第だとも思う。美しいかどうかは自分が決めるし、より美しくできるのも自分だなと、チャレンジを始めてから気がついた。
だからひとつひとつのパーツを愛でていく。瞳がきれいだねとか、指が丸くてかわいいね、手の内側の肉が貯まった所が柔らかくてかわいいね、とかやってる。声を掛けて行く。余裕があれば具体的に。何しろそのまま美しいということを体にも伝える。そうすると身体は喜んでくれる。本当に身体は優秀で、話を懸命に聞いてくれる。だからこそ行う必要性を切に感じるし、身体自身を大切に扱う必要もあるなと思う。
身体の外側に意識が向き始めたから、今度はきっと同じことを内側にも(心に)してあげるといいんだろうなと思う。自分のことを許していくこと。ひっくるめてもうすべてが美しいということ。
人は美に面したとき、それを眺め、それ自身の内なる必然性を愛する。そして必然性を愛するということは、対象への自己の支配力を否定することである。自己を拡張しようという欲求は対象を食べてみずからの内に取り込もうとするが、美は距離を置いて見つめる対象でしかない。それを変化させたり所有することは汚すことである。美の前で人は飢えながらも隔たりをもってそれを見つめ、そのままで存在してほしいと願う。(シモーヌヴェイユWikipediaより)
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