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父とタピオカと「これでいいのかな」

父がよく、「人生で一度も〇〇しないまま死んでいく」と言う。

父は72歳で、数年前にがんを経験しているものの現在は健康だ。人生の終焉がさし迫っているわけではない。それでも、残り時間を意識するお年頃なのだろう。

先日は、「人生で一度も、ナタデココもタピオカも食べないままに死んでいく」と言っていた。

ナタデココブームとタピオカブームの間には30年くらいあるが、そのふたつをひょいと並べるあたり、父が生きてきた月日のスケールを感じる。

ともあれ、父はその気になればすぐにでもタピオカミルクティーを飲むことができる。よく行く本屋と同じビルに、タピオカ屋が入っているのだ。

でも、父はタピオカを買わない。照れくささや、勝手がわからないことへの不安もあるだろうけれど、なにより「そこまで求めてない」のだと思う。

父の心理を推察するに、「特にタピオカを飲みたいわけじゃないけど、人生で一度も飲まないのかと思うとちょっと寂しい」といったところだろう。

その感じはとてもよくわかる。

特に欲していないのに、人生で一度も経験しないとなると、なんだか物足りなく感じる。そういうことってあるよなぁ。


タピオカと並べるような事柄ではないが、私にとっては「子供を持つこと」がそれだ。

私は子供を育てたいと思ったことがない。なぜと言われても困る。「絶対にほしくない!」とは思わないし、いたら愛するだろうけれど、特にほしい気持ちになったことがない。

夫も同じスタンスのため、私たち夫婦は結婚6年目の今も子供がいないし、これからも予定はない。幸い双方の両親も「孫の顔が見たい」と言わないので、子供のいない暮らしにネガティブな感情を持つことなく生きている。

なのに、この状況を例の「人生で一度も〇〇しないまま死んでいく」構文に当てはめると、途端に心許なくなる。

人生で一度も、出産や子育てを経験しないまま死んでいくのか。

そんな言葉で思うと、急に「私の人生、これでいいのかな」とソワソワしてしまうのだ。

かと言って、「私、本当は子供ほしいのかも……!」みたいなことではなく、ほしいと思わない気持ちは変わらない。

ただただ、漠然とした「これでいいのかな」だけが残る。

これって、「人生で一度も〇〇しないまま死んでいく」構文の作用だと思う。

この構文を使うと、〇〇の価値が急激に高まる(ように錯覚する)。もともと〇〇を欲していないのに、〇〇を経験しない人生に一抹の勿体なさを感じてしまうのだ。

「人生で一度も髪色をピンクにしないまま死んでいく」と思うと「一度くらいしときゃよかったかなぁ」と思うし、「人生で一度も海外移住しないまま死んでいく」と思うと「こんなスケールの小さい人生でいいのかなぁ」と思う。

じゃあ今からでも髪をピンクにして海外移住すればいいじゃん、と言われそうだが、別にそれを望んでいるわけではない。むしろ嫌だ。髪色は落ち着いたカラーが好きだし、日本で暮らしていたい。

それでも、手を伸ばさなかったあれこれに、漠然と「これでいいのかな」と思う日がある。後悔を10倍に薄めたような、うっすらと不安になる気持ち。

そういうのがまったくない人生もまた、「これでいいのかな」だろう。

だからあえて、父にタピオカを買ってくることはしない。一度もタピオカを味わわない人生。それもまた、いいと思う。


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