ローソク出せの夜
私が生まれ育った札幌は七夕が8月7日で、その夜は「ローソク出せ」という行事がある。
子どもたちが集まり、みんなで町内の家を一軒一軒巡る。家の前で、声をそろえて歌う。
「ローソク出せー 出せよー 出さないとかっちゃくぞー おまけにひっかくぞー」
すると、家の人が出てきてひとりひとりにお菓子をくれる。ローソク出せが終わる頃には、大きな手さげはお菓子でいっぱい。まるでハロウィンだ。
私はローソク出せが大好きだった。
白地にピンクの花もようの浴衣を着て、声を張り上げて歌う。たまに飴やガムの味を選ばせてくれるおばちゃんがいて、遠慮せずに「サキはブドウ味がいい!」と言うと、姉に「恥ずかしい」と叱られた。
お菓子をもらうと、次の家へと急ぐ。どうせ全員集まってから歌うのに、男の子たちはなぜか「急ぐぞ!」と走り出す。私も負けじと走った。走りながら、幼馴染のチエリンやユッコとふざけあってキャッキャと笑った。
一軒目のときはまだうっすら明るかったのに、いつの間にか、住宅街はすっかり濃紺の夜に包まれている。
今思うと、ローソク出せは一時間くらいのことだったと思う。だけど、幼い私には何時間にも感じられた。このきらきらした時間が、永遠に続くような気がしていた。
ローソク出せは毎年変わらず、夢のように楽しかった。
だけど8歳のとき、ローソク出せの途中で「あれ?」と思った。
……なんだか、それほど楽しくないぞ?
つまらないわけではない。楽しいのだけど、例年ほどではない気がした。
なぜかはわからない。年上の子たちが卒業して、年下が増えたからかもしれない。私自身が、昔ほどお菓子で喜べなくなったからかもしれない。
それまで私は、毎年8月7日になると自動的に「同じ夜」がやってくると思っていた。まったく同じように楽しいローソク出せの夜。
だけど、そうじゃなかった。
今年のローソク出せと、去年のローソク出せは、「別の夜」だ。
その前の年も、そのまた前の年も。ローソク出せは毎年それぞれ別の夜で、同じ夜が巡ってくるわけではない。ひとつひとつが、もう二度と戻ってこない時間だったのだ。
ローソク出せだけじゃない。誕生日も、クリスマスも、いとこたちが集まるお正月も。
繰り返されているようで、本当はどれも「一度きり」だったんだ。この先もずっと楽しいとは限らないんだ。
そのことに気づいて、よるべない気持ちになった。
先週、夫と一緒に町内の夏祭りに行った。この街で夏を過ごすのははじめてだ。
焼き鳥の屋台の前を通ったときの煙たさも、スピーカーから流れる盆踊りの音色も、子どもたちが持っているチカチカ光る玩具も。どれもこれも、懐かしい。
焼き鳥を食べてビールを飲んで、少しだけ盆踊りを踊る。私が育った地域とは曲も振り付けも違うから、アドリブで踊った。夫は踊らず、笑いながら私を見ていた。
帰り道、夫に言った。
「子どもの頃のお祭りって、なんであんなに楽しかったんだろ?」
「今は楽しくなかった?」
「楽しかったけど、子どもの頃ほどではないかなぁ」私はローソク出せのことを思い出していた。
「僕は今日、楽しかったよ」
「子どもの頃よりも?」
「比べようがないなぁ。別フォルダだから」
「……別フォルダ」
「うん」
私たちは来年、新しい元号の夏を過ごす。
その夏は、新しいフォルダに保存するだろう。だけど、「平成最後の夏」というフォルダにはたしかに、今日の思い出が保存されている。
そうして、私たちはフォルダを積み重ねていく。二度と訪れることのない時間を、自分の中に宿し続けて。