四月ばかの場所8 精神科
あらすじ:2007年。作家志望の早季は、皮肉屋の男友達「四月ばか」と一年間限定のルームシェアをしている。ある日、バイト先のキャバクラでトリモトさんという変わった男性と知り合い、気になりはじめる。
※前話まではこちらから読めます。
◇
トリモトさんとはそれ以来、メールのやり取りが続いている。
トリモトさんの返信はだんだん長くなってきた。ときにはとんでもない長文メールすら来る。パソコンで書いているから、興が乗るとついつい筆(指)が進んでしまうのだろう。あたしも長々と書きたいときはパソコンから送った。
トリモトさんはあたしと同じSNSで日記を書いていた。ハンドルネームを教えてくれたので、あたしはトリモトさんを探し出した。
トリモトさんのページは一日に何度も短いグチが更新されることもあれば、何日も更新されないときもある。
たまに、長い長い日記がアップされることもあった。日記というよりは散文だ。自分の思っていることを吐き出す、熱のこもった文章。
それは映画評だったりマニアックすぎるメタル評だったり、マスコミ批判だったり時事問題に対しての意見だったりした。ときには「人間は生きることに意味も義務もない、ただ生まれてきたから生きるんや」という信念についても語っていた。
あまり上手くはないけれど、彼の思想が(おそらくは)的確にあたしに届く、そんな文章だった。感じていることを丸ごとボールにして投げつけられるような感覚。
四月ばかの言った「光」とはこういうことかな、と思う。文章の持つ、光の強さ。けれど、トリモトさんの文章には、トリモトさん以外の人がいられるだけの『場所』がないような気がした。ふと、この人は友達がいないのかもしれないな、と感じた。
あたしはトリモトさんの日記をチェックするのが日課になった。
小説を書いているときも、煮詰まってくるとSNSにログインし、彼の日記が更新されていないかチェックする。仕事から帰ってきたら真っ先にパソコンの電源を入れる。
あたしの日記にも、たまにトリモトさんからのコメントがあった。あたしはそれを見つけるとどんなに他愛ないコメントでも嬉しくなった。
◇
精神科の待合室というのは、どうしてこうも名画の複製画が飾られているのだろう。
あたしはルノワールのニセモノを眺めながら思う。札幌でかかっていた精神科の待合室にも、そういえばラッセンもどきが飾られていた。
ゆったりした音楽がかかっているところも、受付のカウンターにおばあちゃんの家を思わせるセンスのない人形が置いてあるところも、共通している。
そういう、いかにもこちらをリラックスさせようという心遣いに満ちた部屋が、あたしは苦手だ。リラックスしろよ、という何者かの脅迫すら感じる。
待合室にはあたしの他にボストンバッグを持ったおじさんがひとりいるだけだ(家出か?)。こんなに空いているクリニックもめずらしい。あたしは空いているというだけの理由で、もう四年以上もここに通っている。
「今宮さん、どうぞ」
化粧の薄い、幸も薄そうなお姉さんに呼ばれて診察室に入る。ヒールが絨毯にくい込む感触があたしをいらつかせる。
「おや、久しぶり」べったりした笑顔で中年医師が迎える。
何が久しぶりだ、二週間に一度来てるじゃねーか。
「お久しぶりです」
目を合わせずに言う。ここに来ると必ずふてくされた顔になってしまう。これじゃあうつ病が完治したとしても「重度のうつ」と誤診されそうだ。あたしはこのおっさんが嫌いなのだ。
「どうですかぁ、最近」
テノールの美声で謳うように言われても胸くそが悪い。
「いつもと変わりません」
「お引越ししたんだねぇ。どう? んー、環境が変わったわけだけど、ストレスは感じてないかな?」
「ひとり暮らしのときと変わりません」
むしろ、ひとり暮らしのときより元気です。深夜に帰宅して、鍋の中にわかめの味噌汁が作ってあったり、テーブルの上に公共料金の請求書と「支払いしといた。半分よこせ」ってメモが置いてあったりすると、ひとりじゃないということの心地よさを感じます。それでいて毎日顔を合わせるわけでもないからうざったくもなく、快適な暮らしです。
……と、言えばいいのだろうが、言葉を発するのが面倒くさくて脳内で言って済ませてしまう。
「ルームメイトとの関係は良好なのかな?」
あたしは当たり前だろ、と言わんばかりに頷く。
「でもね、あなたはうつ状態になると人と話したくなくなったりお布団から出られなくなったりしちゃうでしょう? そういうときに、家の中に自分以外の人間がいるってことが、ストレスになっちゃうんじゃないかなーって、先生、心配してるんだけど」
たしかに、同居生活が始まってもうすぐ二ヶ月。引越し以降、新しい生活に浮かれてずっと高かったテンションが、ここのところ下降し始めているのはたしかだ。そろそろうつ期に突入するんじゃないか、と毎日びくびくしながらやり過ごしている。
「前に気分が落ち込んだのはいつか覚えてる?」
「三月の……中頃です」
医者はカルテを一枚めくって「正解」というふうに頷く。
「だからー、あなたの周期からすると、そろそろまた気分の波が下のほうにきちゃうんじゃないかなーって思うんだけど、その辺はどう?」
医者は手をフラダンスのようにくねくねさせて「気分の波」を描いてみせた。
「……そろそろ来そうな気はします」
「んー、ルームメイトはあなたの、そういう気質のことはご存知なのかな?」
「知ってます」
四月ばかと出会ったのは、あたしが高校を辞めてすぐだ。一番ひどい精神状態のあたしを、四月ばかは知っている。
「理解がある人なんだね?」
「はい」
「なら良かった」
医者は目じりを下げた。一瞬、彼が心から「良かった」と思っているような気がした。
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