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「家父長制度」の登場

 この章では、「家族制度の変化の歴史」について説明します。

生活基盤が確保されていれば、結婚や家族のことは、比較的自由に決められる

 先ずは、男女関係における古代社会と現代の類似性についてみていこう。出発点となるのは「食べていくこと」です。
 食べていけるだけの経済的な生活基盤がなければ、生きていけない。逆にいえば、生活基盤が確保されていれば、結婚や家族のことは、比較的自由に決められる。

集落を離れると、生きていくことはほぼ不可能


 日本の古代社会の庶民にとっては、村落共同体が生活基盤です。
 集落を離れると、生きていくことはほぼ不可能でした。

 集落にとって重要なのは、皆が協力しあって農作物を収穫することです。
 そこでは、子どもは重要な労働力です。
 従い、、血統を守ることに重大な関心が注がれることはなかった。

 実際のところ、古代社会では、好きになったら体の関係を持ち、そのまま結婚し、子どもを持りました。そして、気づいたら別れていることも多くありました。

古代は「誰かと付き合っているときは他の人と付き合ってはならない」という強い規範もない


 男性も女性も、同時に複数の相手と親しい仲になることがあり、「誰かと付き合っているときは他の人と付き合ってはならない」という強い規範もありませんでした。これを「対偶婚」と言います。

 このような人間関係のあり方は、女性の生活基盤の確保が前提となります。
 日本の古代社会では、庶民なら村落共同体のなかに、支配層なら親族からなる絆のなかに、女性がしっかりと埋め込まれていました。
 そのため、配偶者である男性、つまり「家族」に依存する必要はさほどありませんでした。

「家父長制度」の登場

 古代社会の自由な人間関係のかたちは、古代末期から中世にかけて、大きく変わっていきました。
 私たちが「伝統的家族」として理解している「家父長制度」が登場します。

「家父長制度」は、男性優位の社会体制と家族体制から成る

 家父長制度は、男性優位の社会体制と家族体制から成る。具体的には、家長が「家」の社長となり、妻や子どもの処遇を決めるというものです。
 息子の結婚相手として誰を家に迎えるのか。娘の結婚相手としてどの家を選ぶのか。こうしたことは家長に決定権がありました。
 また、家の財産である「家督」も、家長から次の家長に譲り渡された。
 女性は多くの場合、財産の所有権を持っていなかった。

家父長制的な家族のあり方が典型的に見られたのは、武士階層においてです

 土地は武士個人ではなく、「家」が引き受ける。そのため、家族は、労働力となる子どもではなく、家長の血を引いた子どもを必要とする。

 そうすると、子どもは間違いなく「父の子」であることが重要になるため、男性は単婚や一夫多妻制を選択しました。
 一方、女性は、生まれてくる子どもが誰の子かが明確になるよう、他の男性との肉体関係を厳しく禁じられました。

まとめ 

 古代社会では男女関係は、現代に近い自由なものであった。
 古代末期から中世にかけて、「家父長制度」が登場し、女性には厳しい制度となりました。
【参考】筒井淳也(2016).『結婚と家族のこれから 共働き社会の限界』.光文社