理性的に自殺を語る
頭と身体が動くうちに自分で自分の死に時、死に方を選ぼうという人もいるでしょう。これは端的に言えば自殺です。
死に時はその人の価値観で変わる
人になるべく迷惑をかけずに自殺するには、ある程度の体力がいりますし、頭が惚けきっていないことも必要です。
一般的には「死ぬなんてとんでもない」という価値観に支配されます。ここがとても難しいところで、論じること自体がタブーとされがちですが、はっきりいえば「死に時はその人の価値観で変わる」はずです。
【参考】たくきよしみつ(2018).医者には絶対書けない幸せな死に方. (p.190).講談社.Kindle版.
自殺というテーマを考えるうえでは、自殺の「合理性」と「道徳性」の問題を区別する必要がある。
ここではまず自殺の「合理性」について焦点を当てる。そしてその後、自殺の「道徳性」についての問題にも目を向けていく。
自殺の「合理性」
どのような状況ならば、自殺が合理的な決断になりうるだろうか。この疑問に対する作者の回答は、「自殺の選択が合理的な場合もあるが、推奨はしない」である。
生きる価値のない人生を送る可能性が圧倒的に大きい場合、自殺も合理的に容認されうる。
たしかに自殺はその後のあらゆる可能性を奪ってしまうが、自らの状況について明晰に考えたうえで、改善する可能性がまったくないと思われる場合もある。
そういう場合は自殺が合理的な判断になるだろう。
10年以上乳がんの闘病で亡くなった叔母
10年以上乳がんの闘病で亡くなった叔母を見ると、苦しそうで苦しそうで、「安楽死」の選択肢がないが嫌だった。
結局祖母の命日と一緒に亡くなったので、早く逝きたかったのではないかと思っている。
自殺の「道徳性」
「道徳性」という観点からいうと、自殺の正当性をどう扱うかは道徳理論によって様々だ。
何よりも結果を重視する功利主義的立場なら、「それが正しいかどうかは、万人にどれだけ多くの幸福を生み出せるかの問題である」と考え、「自殺は時として受け入れられる」と結論づけるだろう。
一方で「生きる権利のほうが重要である」と考える義務論的立場からすると、たとえ自殺することで得られる結果のほうが良くても、それを誤りと見なすはずだ。