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西欧絶対王政

絶対王政の特徴

主権国家体制

→明確な領土(国土)を有し、確立した主権が存在する国家。
主権
→国内では最高権力としての性格を、対外的には独立性を持つ。現存する国も大部分が主権国家である。

イタリア戦争(1494〜1559)
→フランスと神聖ローマ帝国がイタリアを巡って争った戦争。宗教とは無関係に国際的な繋がりが持たれたため、ここから主権国家の概念が登場した。
フランス-オスマン帝国
神聖ローマ帝国-イギリス
カトー=カンブレジ条約(1559)で和議

絶対王政の構造

◎絶対王政の基盤
官僚制
→ほとんどが貴族出身。国王の政治を補佐する役人集団体制。王の権力は強いが、万能ではないため補佐役の能力も必要だった。
常備軍
→平時から常設されている軍隊

◎絶対王政の政治理論
王権神授説
→王権は神から授けられた神聖不可侵のものである。

◎絶対王政の経済基盤
重商主義
→国家財政を富ませる政策
重金主義(16世紀)
→海外植民地から金・銀を奪ってくるもの。長続きはしない。
貿易差額主義(17世紀以降)
→輸出を増やし、輸入を抑えて儲ける。
工業製手工業(マニファクチュア)
→資本家が工場を建てて労働者を集め分業による効率化を重視した制度。重商主義の貿易差額主義では“安くて良い製品”を作る必要があるため、この方法が発達した。

スペイン・オランダ

スペイン絶対王政

→偶然が重なって最初は上手く行ったが、根本的な産業等が発展しなかったため簡単に崩れたのが特徴。

カルロス1世(位1516〜1556)
→カール5世と同一人物、神聖ローマ皇帝とスペイン王を兼任。スペイン王とハプスブルク家の血を両方引いていた。

●広大な領土を支配
スペイン、ネーデルランド、オーストリア、シチリア、ナポリ、ミラノ、フィリピン、アメリカ大陸
→ここから大量の銀を入手出来た

フェリペ2世(位1556〜1598)
→莫大な銀を使って絶対王政を行った。

フェリペ2世肖像画

カトリック政策を強化
英王メアリ1世と結婚、ネーデルランド植民地に旧教を強制

レパントの海戦(1571)
→スペイン・教皇・ヴェネツィアなどvsオスマン帝国
この戦いに勝利したスペイン海軍は、その後も強化され、無敵艦隊と称された。またスペインが地中海の制海権を得てオスマン帝国の勢力は後退した。ただこの戦いは他の勢力の協力が得られたことも大きかったため、スペインが最強だったわけではない。

マニラの建設(1571)
→フィリピン経営の本格化(フィリピンという名称はフェリペからとられている)

ポルトガル併合(1580〜1640)
→スペイン:「太陽の沈まぬ国
 ポルトガル王家が断絶したことにつけ込み、母がポルトガル王家出身であったことから王位継承権を主張し、1581年にはコルテス(身分制議会)で即位を認めさせ、ポルトガル王としてはフェリペ1世となった。

無敵艦隊(アルマダ)敗北(1588)
ネーデルランド独立戦争中に支援していたイギリスを討とうとして敗北。

●スペインの凋落
 ネーデルラントは1581年に独立を宣言、独自の経済活動を開始した。スペインにとって経済的基盤であったネーデルラントとその中心都市アントウェルペンを失うと、本国では基盤となる毛織物産業がオランダなどに押されて低迷し、他に産業を持たなかったので、その経済は急速に衰退した。スペインは17世紀にはその地位をオランダ、イギリスに奪われ没落することとなる。
 このため絶対王政はフェリペ2世で終わってしまう。

オランダ絶対王政

→17世紀は「オランダの世紀」と呼ばれる。

◎オランダの発展(首都:アムステルダム)
アジア貿易への参入
オランダ東インド会社の設立
→ジャワ島にバタヴィアを建設、総督府を設置し香辛料貿易の独占を狙う。ポルトガルがスペインに併合されたためその穴を狙っていた。

台湾を占領
→日本・中国との通商の拠点に

ケープ植民地建設
→アフリカ最南部の植民地

アンボイナ事件(1623)
→モルッカ諸島で発生。イギリス人商館員を虐殺、イギリスを東南アジアから締め出すことが目的。

オランダ西インド会社の設立

ニューネーデルランド植民地
→ニューアムステルダム建設(現在のニューヨーク)

イギリス・フランス

イギリス絶対王政

ジェントリ(郷神)
→貴族と平民の中間的な位置。治安判事などを担当し地方行政の一翼を担う。こいつらはボランティアで業務を行っているため、別で収入が必要。
毛織物工業の発達(代表的産業、14世紀以降)
→ジェントリの収入源

●官僚制と常備軍は未発達
→イギリスは伝統的な議会があるため国王の力が強大なわけではない。中央行政を担当する議会と地方行政を担当するジェントリと上手く手を取りながら絶対王政を敷いているため、他国の絶対王政とは性格が異なる。

テューダー朝の発展

ヘンリ8世(位1509〜1547)
星室庁裁判所の設置(16世紀後半)
→身分の高い者を裁く国王直属の裁判所
→宗教改革に伴いカトリックの土地を安く分配したため国民からの支持が厚くなっており、このような裁判所の設置が可能であった。絶対王政の足がかり。

第1次囲い込み(エンクロージャー)
→領主や地主が共有地などを牧羊地にする目的で塀などで囲んだ。イギリス産業の発展がヘンリ8世のもとで行われた。
→農民たちの浮浪化・極貧化。

エリザベス1世(位1558〜1603)
統一法の制定(1559)
→イギリス国教会の確立

エリザベス1世肖像画

フランシス=ドレーク(1540頃〜1596)
→公認された私拿捕船(私掠船)で、彼はアメリカ植民地から帰航するスペインの財宝船をねらい、大きな利益を上げた。実質的な国家公認の海賊行為

●北米にヴァージニア植民地を建設
→失敗に終わる

●スペインの無敵艦隊(アルマダ)を撃破

イギリス東インド会社の設立
→重商主義政策の表れ

フランス絶対王政

ブルボン朝(1589~1792)
→ユグノー戦争は宗教的対立のみならず、有力貴族を巻き込んだ権力闘争でもあった。そのため、終結後は貴族が没落したため、絶対王政期に入る。
アンリ4世(位1589~1610)
①ユグノーからカトリックへ改宗(1593)
ナントの王令を発布(1598)
→ユグノー戦争終結
フランス東インド会社の設立(1604)
→経営不振
ケベックの建設(1608)
→カナダの拠点

ルイ13世(位1610~1643)
三部会招集停止リシュリューを宰相に任命。王権を強化した。

フランスのルイ14世の時代

ルイ14世肖像画

ルイ14世の絶対王政

宰相マザラン(任1642~1661)
→ルイ14世は10歳ほどで即位したため最初は彼が実質的な政務を担当
フロンドの乱(1648~1653)
→王権の伸長に対し高等法院や貴族が中心となって反乱を起こした。

ルイ14世(位1643~1715)
●「朕は国家なり
●神学者ボシュエ
→王権神授説の理論を確立。皇太子の教育係も務めた。
●財務総監コルベール(任1665~1672)
→フランス東インド会社再建、特権マニュファクチュアの設立
ヴェルサイユ宮殿の完成(1682)
→政務の中心
ルイジアナの建設(1682)
→ミシシッピ川流域を領有宣言。名称はルイ14世に因む。
ナントの王令廃止(1685)
→国内のカトリック化を推し進めた。国内にいたユグノーたちは国外に逃亡。そもそもユグノーはカルヴァン派であるので営利活動に熱心で、フランスの経済活動を支えていた。これが一因となりフランス産業が衰退することになった。

ヴェルサイユ宮殿

ルイ14世の対外戦争

→自然国境説を唱え、スペイン方面ではピレネー山脈、イギリスとはドーバー海峡、イタリアとはアルプス山脈で隔てられているため是としたが、オランダ方面はライン川で隔てるべきなのに、手前に南ネーデルランドやファルツがあるのはおかしいと主張。

南ネーデルランド継承戦争
オランダ戦争
ファルツ戦争

スペイン継承戦争(1701~1713/1714)
スペイン=ハプスブルク家の断絶、ルイ14世の孫フィリップに王位を継承させた。ルイ14世の奥さんがここの出身だったため可能に。フェリペ5世として即位しスペイン=ブルボン朝がスタート。フランス・スペイン連合軍とイギリス・オランダ・オーストリア(神聖ローマ皇帝)・プロイセンなどの連合軍との戦争に。
ユトレヒト条約(1713)
→フェリペ5世の即位を承認。フランス・スペインの合併は永久に禁止。戦争に資金を投じた結果、領土の拡大に失敗。財政を圧迫し、絶対王政の衰退期に入り、のちにフランス革命につながる。

第2次英仏百年戦争

イギリスの世界進出

◎インドへの進出
→東インド会社が中心
マドラスボンベイの獲得
カルカッタの獲得
→肥沃なベンガル地方の要地

◎アメリカ大陸への進出(13植民地の形成)
ヴァージニアの建設
→最初の北米植民地
ピルグリム=ファーザーズ
→ピューリタンを中心として宗教的自由を求めて移住。植民地開拓の中心的役割を担う。
ニューイングランド植民地
→アメリカ東北部沿岸
ニューヨークを獲得
→元々はニューネーデルランド

フランスの世界進出

◎インドへの進出
→東インド会社再建、1664)
ポンディシェリーの獲得
シャンデルナゴルの獲得

ケベック建設(カナダ)
ルイジアナの建設
→ミシシッピ川流域を領有

イギリスとフランスの植民地争奪戦

第2次英仏百年戦争(1688~1815)
アン女王戦争(1702~1713)
→スペイン継承戦争関連の戦い。アメリカ植民地でイギリスとフランスが衝突。フランス本国からの兵力派遣が十分でなく、イギリス軍が優位に戦闘を進めた。
 その結果、1713年のユトレヒト条約で講和となり、イギリスは多くの領土を獲得。(アカディア、ジブラルタルニューファンドランド、ハドソン湾地方、ミノルカ島)
 この勝利がイギリスの海外発展、第一帝国形成の発端となったと言える。

フレンチ=インディアン戦争(1755~1763)
→7年戦争と並行。パリ条約(1763)で講和。イギリス植民地帝国への基盤が確立。
カナダミシシッピ川以東のルイジアナフロリダ

カーナティック戦争
プラッシーの戦い(1757)
→イギリス書記クライヴが活躍。インド植民地で争う。
この結果イギリスは広大な植民地を獲得した。

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