【25年かけた想い】東京ディズニーランドを日本に誘致した経営者たちの道のり
数年ぶりに家族でディズニーランドへ行きました。
数週間前から、「ミッキーに会える!」と娘とワクワクしながら楽しみにしていましたが、当日の東京のお天気は珍しく吹雪。。
「なんでよりによってこの日に?!」と嘆いてしまいましたが、これも良い思い出と捉え、またお天気の良い日に家族でリベンジする目標が新たにできました。
今回、寒さや吹雪なんて関係ない!と言わんばかりにディズニーランドにはお客さんがたくさん来場していて、改めてディズニーリゾートの圧倒的な人気に驚かされました。
日本人全員が1人あたり5回も訪れているというリピート率の高さは、数字で見てもディズニーリゾートのホスピタリティの高さや人気ぶりを物語っています。
では、そもそもディズニーリゾートはどのように日本にやってきたのでしょう?
昔テレビの特集番組で見たことを思い出し、今回改めて日本のディズニーリゾートの歴史について調べてみました。
浦安市の歴史
今ではディズニーリゾートがあまりにも有名な千葉県浦安市は、元々は「漁師の街」として栄えていて、当時の海苔や貝類の養殖は、現在の価値に換算すると約150億円規模となる巨大産業でした。しかし、1960年頃に起きた工場からの水質汚染の結果、豊かだった浦安の海は黒い海へと変わってしまいました。この汚染された海を埋め立て、そこにレジャーランドの建設を行うことで、豊かな浦安市をもう一度取り戻そうとしたことがディズニーランド誘致のきっかけだったそうです。
ディズニーランドの運営会社である「株式会社オリエンタルランド」は当初は埋立地での事業を行うにあたって設立された会社でした。1958年にオリエンタルランド初代社長であった川崎千春はバラ園の為にバラを買い付ける目的でアメリカに渡った際、ディズニーランドに感銘を受け、「浦安市を救うにはディズニーランドを日本に誘致するしかない!」と思いついたことが全ての始まりでした。
酒豪の交渉役 「高橋政知」氏
埋立地の話を進める為には、それまで漁業で生計を立てていた、たくさんの漁師の説得や補償交渉が不可欠でした。相手の心をしっかりと掴むことのできる人間として、大酒を酌み交わし、腹を割って話し合うことが出来る交渉役として当時ヘッドハントされたのが後にオリエンタルランド社の2代目社長となる高橋政知(まさとも)氏という、米ディズニーとの交渉やディズニーランド設立に大きく貢献された方がいます。
高橋氏が漁師たちを説得する為に行った交渉術がとても印象的でした。一升瓶片手に漁師宅を一軒一軒渡り歩き、時には何時間もかけながら酒を飲み、1人1人の話に耳を傾け、信頼関係を築くことで「埋立地につくるレジャーランドを必ず成功させる」と約束を取り付けました。その結果、3年はかかると予想されていた交渉はなんと半年でまとまりました。驚きなのが、高橋氏が酒を取り交わした漁師の数は半年間でなんと1700人以上だったそう!高橋氏なくしては今のディズニーリゾートの実現はできなかったと言っても過言ではありませんね。
漁師との交渉の次は、高橋氏は米ディズニーとの交渉に移ります。
当時米ディズニーは奈良ドリームランドとの著作権問題がネックとなり、東京ディズニーリゾートの実現に難色を示し、オリエンタルランド社にとって困難な条件を幾つも提示していました。この条件に対し、オリエンタルランド社の親会社であった三井不動産は米ディズニーとの交渉打ち切りを発表しました。しかし、そんな親会社の命令を無視し、高橋氏は独自で米ディズニー社との契約を進めていきました。
埋め立ての話が始まった当初から取り交わしてきた漁師たちや関係者たちとの約束。それを果たす為にも、高橋氏は何がなんでもディズニーランドを浦安市にオープンさせる強い想いがありました。
その結果、1979年4月30日、パーク設計、建設、運営に関する内容が盛り込まれた「東京ディズニーランドの建設および運営に関する契約」(基本契約)が調印されました。
浦安市が選ばれた理由
浦安以外にも、静岡県、茨城県、長野県などがライバルとして誘致活動に専念していましたが、
①東京という1300万人の巨大マーケットがすぐ隣にあること
②浦安市は海に囲まれている為、非日常感を大切にする米ディズニーの理想に合ったこと
これらの理由で最終的に浦安市が東京ディズニーリゾート地として選ばれました。
1800億円の総事業費用
無事契約が進み、工事は順調に進捗したものの工費は想定以上にかさみました。当初に見込まれた予算1,000億円は瞬く間に増加し、最終的に総事業費用は約1800億円となりました。予定のほぼ倍ですね!
そんな中、「妥協はするな。本物を造れ」という髙橋社長の言葉がプロジェクトを牽引していきました。当時「日本のレジャーランドは米ディズニーに比べたら砂場のようなもの」と言われていた時代で、「本物であること」にこだわり続けた結果、1983年4月15日に無事オープンを果たし、40周年たった今でも人々の心を感動させるパークでい続けています。
現在では、オリエンタルランド社は2024年3月期の業績予想を売上高:5946億8800万円とすると発表し、世界中からファンが集まるテーマパークへと成長しました。
最後に
ディズニーリゾートの誘致は熱い志を持った経営者の方々の想いがなければ実現しなかった、映画のようなストーリーが裏側にあったことを知り、よりディズニーのことが好きになりました。初めて川崎千春が「ディズニーランドを日本に持ってこよう!」と思い立った日から25年の歳月をかけて実現した夢となりました。
ウォルト・ディズニーの言葉通り、「永遠に完成しない」夢の国として、ディズニーランドは何歳になっても私たちを楽しませてくれる素敵な場所であり、今後は何回でもリピートして新しい発見と共に存分に楽しみたいと思います。
今回、2歳の娘ちゃんにとってはディズニーランドを楽しむにはまだ早かったようで、メリーゴーランドやモンスターズインクのライドで怖くて号泣してしまいました。次回吹雪のないお天気が良い日にもう一度遊びに行きたいです!