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物価上昇と自己責任の今、考える

Photo by yamamoto15, thanks.
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7月の参院選が目前だから、経済と福祉について考えた。なぜなら、この選挙が終わると国政選挙は3年間なく、ある意味で国民は政治に今までのように国政に参加する権利すなわち参政権(選挙権など)を行使することができない特別な長い期間が訪れるからだ*

だれもが知る通り、基本的で最低限の生活の出費に関する物価の上昇が止まることを知らない。少し前までガソリン代は100円や120円ぐらいだったのに、いつの間にか今は、田舎でさえリッター173円である。

(※ガソリン価格が高いと流通費用が高くなるためさらに物価上昇する原因となってしまう)

たとえばアイスの価格も高いと感じる。それでも手に持つその貨幣に関する量と価値の感覚は変わってない。100円は100円だ。100円がむかしの50円のようには感じていない。

ということは貯蓄や手持ちのお金が少ない人ほどこの状況で支出の割合が高まるということになる。なぜなら手持ちのお金を高い割合で生活費に使わざるを得ないからだ。

たくさん持っているひとは、貯蓄とは別の年間に使えるお金1000万円のうち1万円がじきに本当に3割上昇の1万3千円の支出になっても、すくなくとも貧しい人ほどは痛くないだろう。

が、いま貯蓄を含めて財布のなかに3万円しかないひとが生活の基礎として1万3千円がなくなっていくなら生活費30%の出費だったものが50%に近くなるのであり、生活の最低限でない支払いに回せる割合が減るだけであり、貯蓄は全然できず、痛い出費だと言えよう。

要は、ふつうのひとはもっと貧しくなる

なぜこんなにお金がないひとの話をしたかというと、日本人の相当な多数は貯蓄ゼロまたはほんのわずかだというデータがある。たとえば引っ張った以下のデータから見ても全体的に少なそうなのは明らかだ。

金融広報中央委員会の調査(2019年)
貯蓄ゼロの単身者
20代 45.2%
30代 36.5%
40代 40.5%

お金がない貧しい人々の人口はすごい数になっている。日本人の半分近く素寒貧(すかんぴん)だと言っても過言ではない*。その割にどことなく無音無風の気がするのは異様な気がする。日本人というのは自由ならば自己に責任をもとうと思って近代社会になっただろうが、過酷なほど自己のみで責任を背負い込もうとする社会になってしまったのだろう。

Q1、かつて日本人は飢えて死にそうになった時、どうしていたか。

義倉(ぎそう)という制度があり、ふだんみんなで積み立てて置いて、非常事態になったら食べたり貸したりしたというものがある。社倉(しゃそう)や郷倉(ごうぐら)と呼ばれたりもした。

1655年、会津藩内にて、保科正之(ほしなまさゆき)が最初に社倉を実施した。そういえば、いま日本ではコメを備蓄して余っているのではなかったか。ああいうのはかつての米騒動的な、現代版デモのターゲットにでもなりそうだなと思いながら。

こないだ天保時代に関して書いた。天保には「天保の大飢饉(てんぽうのだいききん)」が発生している(1833~1837)。このため、大塩平八郎(おおしおへいはちろう)らが1837年に大坂で反乱を起こした。

平八郎は貧民を救済しつつ、町奉行所の無策を批判していた。行動を促す文である檄文(げきぶん)を回してひとびとを動員して挙兵する。

大坂の豪商を襲い、貧しい人々にお金やコメを与えた(1日で鎮圧され、1か月後には平八郎も自殺)。しかし平八郎は元幕臣で陽明学者だったこともあり影響は大きく、さらなる反乱が続発したとのこと。

天保の飢饉というのは、明治時代になるわずか30年前のことだ。当時の平均寿命は恐ろしく短いためあれだが、明治時代の初期に生きていたひとびとのなかで数少なくとも長寿の古老たちは、江戸時代の天保年間のことをついこないだのことのように覚えていただろう。

Q2、では明治時代はどうだったのか

(江戸時代を「近世(きんせい)」といい)
(明治時代以降は「近代(きんだい)」という)

江戸時代までは、ある家が年貢などを払えないとなると、周囲の家々がそのマイナスを負担していた、連帯責任だったのである。

それが近代の社会では、個人個人が別々に責任を負う自己責任の社会となっていく。ここが転換点であった

自己だけで責任を負えば良いから、連帯しなくていい身軽さはある。しかし誰かが貧しくなっても地域は助ける義務が発生しない(あえて「地域」という、いま良い風の言葉を使っておいた)。

日本の近代といえば資本主義である。お金をもつひとが中心となってさらに利益を生み出していくお金中心の社会のことだ。

それは、かつてのように身分や国家に仕事などの暮らし方を縛られず、自分でお金を稼いだら起業したり貯蓄したりして、もっと自由になれることも意味する。

いわゆる「自由だ」という意味がここに表れているように思える。

Q3、渋沢栄一の慈善活動とは?

その「資本主義の父」と言われるのは、渋沢栄一である。なんとかれは、江戸時代の天保年間に生まれていた。天保時代に生まれていたということは親や近隣のひとびとがそういうサバイバル社会に生きていたことを意味するだろう。

渋沢は非常に多くの企業をつくったから資本主義の父と言われているが、たほう、資本主義によって貧しいひとびとが非常に増えていることもまた、よく知っていた。それで、資本主義の弱点を治そうとしていたのである。

(※「知る」と「行う」が「一致」しているため、渋沢さんは知行合一(ちこうごういつ)のひとだったのであろうか。知るということは行っているということだと考えるのが陽明学(ようめいがく)であり、それを知行合一という。養老孟司さんがyoutubeで語っていたのを思い出す)

しかし明治時代において東京議会の有力者は「税金で困窮者を養うのは、国民を怠け者にするだけだ」と主張していたようだ*。

東京議会の有力者がそう主張するぐらいだから、そういう主張は当時でもそれなりの数であったのだろう。

渋沢は「病気や災害や失業で貧しくなる人々は多い。彼らを救うのは人の道ではないか、政治の役割でないか」と反論した。

渋沢はフランスで見聞した慈善バザーを思い出す。友人や知人らに品物を持ち寄ってもらい、華やかな集まりをする「鹿鳴館」(ろくめいかん)でお金のあるひとびとに買ってもらうというバザーを開いた。

欧米ではフィランソロピーと呼ばれたそう。ドラマ『坂の上の雲』でも「フィランソロピック」という言葉が紳士に関する英語で叫ばれたのを思い出す。またはNHKドラマ『白洲次郎』のノブレスオブリージュだろう。

要は、持つ者たちが持たざる者たちへ何か支援するということ

話を戻すが、渋沢はその後もあれこれと社会活動をつづけ、フィランソロピーの開拓者となっていった。

そうして渋沢は慈善事業もたいへん熱心であり、「中央慈善協会」の初代会長に就任し、こう述べた。

文明が進み、富が増すほど、貧富の差がひどくなる
もちろん政治と力を合わせなければ十分な効果は得られない
(日露戦争が終わって3年後の1908年・明治41年)

この中央慈善協会がのちの全国社会福祉協議会つまり、いま日本各地にある通称「社協」になっていくのである。社協で働く人々を見ていまのひとがどれだけ渋沢栄一を思い出すのだろう。

Q4、昭和における支援策はどうなったか。

そして昭和の時代となり、地震や不景気などあれこれと発生して、ひとびとはまた貧しくなっていった。しかし明治時代に急いで作った「恤救(じゅっきゅう)規則(明治7年制定)」という救済政策しかなかった。

じゅっきゅうというのは「あわれみ救う」という意味であり、ぎりぎりのひとたちだけをあわれみ助ける程度の内容であった。

1929年(昭和4年)、やっと「救護法」(きゅうごほう)ができ、国家が貧困者を救うのは義務だということを初めて認める法律ができた。

実際の条文を「国立公文書館デジタルアーカイブ」から見てみよう。しかしカタカナで文語体なので一般人には読みづらい。

全貌は見てないが、最初から「65歳以上の者」「13歳以下」「妊産婦」「疾病」などとあり、一般の元気な、しかし貧しい人々を救う気はあんまりなさそうだが、とにかく成立した

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それでも政府は予算を軍事費に使い込み、この法律の実行は先延ばしされてしまった。

そこで渋沢を師とする各地の今の民生委員にあたるひとびと千数百人が立ち上がり、天皇陛下への上奏文を提出したりして、ようやく実施された。

しかも、競馬の利益の一部をまわす形だったという。「え、競馬なんてことができていたのか」ということがまず先に思われることだろう。

格差社会というのは、そういうことなのである。

Q5、戦後の支援策はどうなったか。

そして太平洋戦争直後の1950年(昭和25年)、いまの生活保護法が成立する(それまでずっとこの救護法がひとを救っていた)。

e-gov(イーガブ)法令検索」により、生活保護法をざっと見てみよう。太字化は筆者がおこなった。

生活保護法
第一章 総則
(この法律の目的)
第一条 この法律は、日本国憲法第二十五条に規定する理念に基き、国が生活に困窮するすべての国民に対し、その困窮の程度に応じ、必要な保護を行い、その最低限度の生活を保障するとともに、その自立を助長することを目的とする。
(無差別平等)
第二条 すべて国民は、この法律の定める要件を満たす限り、この法律による保護(以下「保護」という。)を、無差別平等に受けることができる。
(最低生活)
第三条 この法律により保障される最低限度の生活は、健康で文化的な生活水準を維持することができるものでなければならない。

まずは「日本国憲法」と「25条」が何より重要だということが分かる(ただし憲法12条に書いてあるとおり、これを国家に守らせるのは国民の努力による)。

憲法25条
すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。
国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。

上で書いた「救護法」と比べてみてどうだろうか。いきなり「すべて」とあり、「国がそう努めなければならない」とあり、前より優しくなった感じがする(完璧かどうかは別にして)。

次に、生活保護法のほうに戻って、第2条を見てみよう。「無差別平等」とあるのは、つまり前の法律や社会は差別的で不平等であったがこれからそういうのはやめていくという決定が見て取れる。

けだし思うに、ひとは生きるのにやる気をなくした後に助けられるより、まだ余力が残っているときに素早く支援されるほうがより精神的にも身体的にも立ち直りやすいため、現行の各種補助などを含め、支援する対象は多いほうがよいと思う。

それに文化というのは、いかにしてやさしい社会をつくれるかというところに力点があると考えられるからである。

参考
・『素寒貧』の意味 「貧しくて身に何もないこと。無一文であること。また、その人やさま。」引用 コトバンク
https://kotobank.jp/word/%E7%B4%A0%E5%AF%92%E8%B2%A7-540934
・『第598回:参院選、始まる〜これが終わったら3年間、国政選挙がないらしく、3年後、50歳になるロスジェネの一人として〜(雨宮処凛)』 雨宮処凛 マガジン9 2022年6月22日
https://maga9.jp/220621-3/
・『渋沢栄一が目指した福祉』NHK 視点・論点 宮武剛 2021年11月22日 https://www.nhk.or.jp/kaisetsu-blog/400/457548.html
・『e-gov法令検索』https://elaws.e-gov.go.jp/
・『国立公文書館デジタルアーカイブ』https://www.digital.archives.go.jp/

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