笹

どんな言葉を足す?

“どこかで誰かが見ている"

こんな風に書いたら、好意的な意味に捉える?それとも捉えない?

これ、たぶん好意的な意味には思えないのではないでしょうか。
ところが、この文章に"ある言葉”を足すと、ほとんどの人が好意的、または応援してもらっているようにも感じられるようになるんです。

あっ、その前に“どこかで誰かが見ている”、と僕が言われたら、僕は自分の姑息で小さな悪事がばれるのを恐れます(笑)。

はい、では話を戻して、と。

どんな言葉を足すか。あなたは思い浮かびましたか?
僕が考えている言葉以外にも、あるかもしれません。

この後、僕の考えている言葉以外にも、変化させてくれる言葉があれば教えてくださいね。もうね、“言葉って素敵だ”、と思わせてくれる「足し言(たしげん)」は、どんどん伝えあっていけばいいな、と大変強く思っているわけです。
本当に言葉はすごい。
昨日の記事「広大無辺」でも書いている”言葉の入れ替え”は、またたく間に目から鱗のような変化をもたらしてくれるんだもの♪

ちなみに「足し言(たしげん)」は、今、この瞬間、思いついた僕の造語です。韻も踏んで意味もあって、何より語感がいいな、と。

あっまた話それた(苦笑)

そうそう、なぜ、こんなことを書くのかと言うと、昨日、十日恵比寿の帰りに、偶然、車から見れた“嬉しい瞬間”があったからなんです。
しかも二回も!

まずその“嬉しい瞬間”一回目は、おじいちゃんとお孫さん。

その場所は、車を走らせている3号線と、JRの線路を挟んで向こう側に見える17号線が一番近づく場所。3号線から見ればやや上に、17号線からはやや下に、どちらからもお互いの存在がはっきり認識できるトンネルの出口のような一気に視界が開ける見渡しの良さ。

おじいちゃんとお孫さんを見たのは、その景色が終わりを迎える左にゆるやかなRを描く坂道、その手前の十字路。

おじいちゃんの手を振りほどいて縁石を渡り始めたお孫さん。
たぶん保育園(幼稚園)くらい。
その子は勢いよく進む。そして縁石の中央に差しかかった瞬間、勢いあまって右足を踏み外してしまい前のめりに倒れたその子。
そのまま頭から落ちそうになった刹那。
「あっ!危ない!」僕がそう思った瞬間。
おじいちゃんが、界王拳を一瞬だけ使ったかのような俊敏な動きで、空中でその子を見事にキャッチ!そして、そのまま抱き抱えて、あやすのかと思いきや、もう一回縁石にすっと立たせてあげて自分の足で最後まで渡らせてあげようとしていた。
それを見て僕はつい、『おっ、おじいちゃんそう来ましたか~♪ いい事するね~』と、声に出してつぶやいてしまった。

さっこれから、という時に前の車が進みだす。

サイドミラーとバックミラーで見ようとしたけれど、左に向かうカーブにその景色は飲み込まれて、あっという間に見えなくなった。
だから、その後、ちゃんと渡り切ったかは定かではないけれど、きっときっと最後まで渡り切ったはず。

そして、二回目は自宅近くの住宅街、十日恵比寿の福引の大行列を思い出しながら「そろそろ家に着く~。あぁ早く横になりたい~」と、思っていた時。
道路沿いにある駐車場の入り口、そこに隣接されている自販機の入れ替えをしていたお兄さん。ある程度中身を入れ終わった段ボールを二段重ねでめいっぱい代車に積んでいた。中身はまだ半分以上はあるだろうとわかるくらい、前のめりになって必死に代車を押していた。
自販機の場所は駐車場の入り口。トラックはちょっとした傾斜のついた坂の先。
これもまたもう少しという所で、バランスを崩した段ボールが次々にくずれていく。次々にくずれていく段ボールを必死に食い止めていたその姿を見て、ここでも、とっさに僕は『そんなこともあるさ。負けんな!俺は頑張ってるのしっかり見てたぞ!』と心でエールを送っていた。
それは自分に置き換えて見ていたから。

誰も助けてくれないひとりきりだと思っている瞬間。

『僕はちゃんと見てたよ!めっちゃ頑張ってた。応援してたよ!』

自分がそう言われてたら、きっと嬉しい。
ただの風景のように通り過ぎる車、そこに人を感じることはなかなか出来ない。けれど、僕がつい思ったように、つい口に出してしまったように、ひとりぼっちだと思っていた瞬間に誰かが見てくれていて、応援してくれているのかもしれない、と思ったら、とんでもなく嬉しくなった。

僕は懸命に生きる一瞬に立ち会えた。
それは奇跡だと思う。

実は、僕は仕事以外ではひとりで外出なんてまったくしないし、したくない人間。そして、その理由よりも、もっと大きな躊躇した理由。
十日恵比寿は、僕の大事な人と家族で居れた頃に毎年行っていた大事な場所。今年は仕事の都合で10日の当日には行けなくなったので、まだその場所にひとりで行く覚悟が持てないでいた僕は安堵していた。
けれど、翌日11日の“残りえびす”に行ける時間がふっと出来た。
家に帰って、このままでいるか、それとも行くか。
悩んで、悩んで、やっぱり人生を進めようと、ひとりで十日恵比寿に向かった。ひとりで歩く道は思い出だらけで、露店を見れば一緒に笑顔で食べたもの、人混みを避ける為に自販機の横で飲んだジュース、猿回しを一緒に見たがったのに、僕は興味がなくてひとりで見せてしまった場所、数え上げたらキリがない後悔と、本当に幸せだった時間がめいっぱい詰まった想い出の場所。泣きながら歩くのは難しくて、止めようとしてもやっぱり流れてしまって、でも、ちゃんとお参りして、福引もして、ひとりになった人生を進めようと頑張った十日恵比寿。

その帰りの出来事。

行ってよかった。

僕は弱い。
だから頑張って生きていく理由が欲しい。

人に見られている仕事場は大丈夫。

でも、ひとりぼっちになってしまった瞬間が弱い。

”だからこそ” 
あっ、これ、僕の大好きな言葉です。

そうそう、だからこそ、“どこかで誰かが見ている"“ある言葉”“足し言(たしげん)”すると、ひとりぼっちの時に“ひとりじゃない”と思える言葉に、あっという間に変化してくれるんです。

本当に十日恵比寿に行ってよかった。たくさんもらった♪

その中でも、今から書く言葉を見つけられてよかった。
その答えが僕には力強く響く。

きっと、きっと大丈夫。

誰も味方がいないと泣いている人、大事な人と離れてしまった人、頑張っても報われないと諦めてしまった人。

辛くても、悲しくても、やりきれなくても。
必死に踏み出した一歩や、足掻いてもがいて生きて、呼吸している今。

その頑張り。

”どこかで誰かが見てくれている”よ。


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