思いやりスペース

色眼鏡 と 思いやり

アルバムタイトルが「イロトリドリ」になったきっかけ。
それは、アルバムの一曲目に収録されている「カラー」という曲。

ねぇ どれくらいこの空の色は青いの
ねぇ どれくらいあの雲は白いの 
見えてるものは少しくらいは同じでしょうか? 

そう問いかけて始まる「カラー」

僕は強い偏見や差別を持っている。

頭では「受け入れ」や「認め合い」の必要性を理解出来ていても、心に巣食った傷は驚く程自分の一部になっていて、それらを軽く吹き飛ばしそうになる。

誰もが大なり小なり持っている傷から発生する、「頭ではどうしようもない偏見や差別」。

僕は決してそれが悪いとは思わない。

「ダメ」だとわかってないものや、「危険」だと認知できていないものを、どうやってコントロールするというのか。自覚出来ていない「差別」や「偏見」ほど“たちが悪い”

「思いやり駐車スペース」が、特にわかりやすい。この駐車スペースに何の躊躇もなく停める普通の人達がいる。特にひどいのは親子連れだ。子どもがいるのに、「親がそれをすることでそれは自分がやってもいいこと」だと、その子の考え方をねじ曲げているかもしれない。
そんなことすらわからない大人が、親がいることに驚く。

純粋に怒りが湧く。
とても許せない程の怒りだ。

そう。僕の「差別」や「偏見」は、『普通の人達』。そして『自分が常識人で、下ではなく上だと思っている偉そうな人達』に向けられる。

あれほど、学校に行けない僕を馬鹿にして、時には怒鳴り、常識外れだと罵倒してきた“自称普通の人達”。そして、人を下に見て、“自分自身を常識人で立派だと勘違いしている人達”。

それは僕の中では、教師や親。 

僕より年齢が上だというだけで、明らかに下に見てくる。その下だと思われている僕が、相手の発言の、矛盾点をつけばお湯が沸いたように怒る。怒ればどうにかなる、くらいの勢いでだ。

小さい頃に経験した「威圧の伴った道理が通らない押し付け」の傷は深い。
順当な反抗期や、世の中の洗礼を受けていたら、まだ少しは違ったように思う。3歳から十二指腸潰瘍では流石に早すぎた。

では、なぜ「偏見」や「差別」を持っていても悪くないと言えるのか。僕は、それが自分の中にある、と、自覚できていることで、グッと踏み止まれているからだ。自覚していなければ「反射的に攻撃」するはず。けれども自覚さえしていれば「怒りを抑制して堪える」ことが出来る。

「された嫌なことは見事に誰かにしている無自覚の怖さ」

僕はその無自覚で家族を失ってしまった。

もっと早く、もっと深く、自分の消えない「差別」や「偏見」を受け入れればよかった。
決して消えないという事実を。
そして、だからこそ上手くコントロールしていく努力をするべきだ、と。

僕はこの「カラー」を書いた。
当時は言葉だけ優先の、浅い理解だとわかる。

『カラー』
ねぇ どれくらい この空の色は青いの
ねぇ どれくらい あの雲は白いの

見えてるモノは少しくらいは同じでしょうか?

僕の心にかけた眼鏡は透明じゃないから
eye color  
my color

今なら、この歌詞の続きの答えをしっかり出せる。

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