ダメ人間だった私が起業できた理由
はじめまして!下半身痩せ専門パーソナルトレーナーの飯沢芳明です。
この記事では、私が現在の下半身痩せ指導に至るまでの経緯や、なぜ下半身痩せ専門にしたのか?どのような決意で指導をしているのかなどの「想い」を中心にご紹介しています。
この記事を読むことで、飯沢個人のことも知っていただけますし、読者の皆さんにも参考になることがあるのではないかと思っています。
特に、これから起業したい方や、これからの人生をどう開花させていいのか路頭に迷っている方には参考になる内容だと思います。
私は2015年9月1日に「下半身痩せ専門パーソナルジム Style A 芝公園」を開業し、下半身痩せ専門パーソナルトレーナーとしての活動を開始しました。(2020年より銀座に移籍)
開業当時は、パーソナルトレーニングが社会的なブームになっていて「2ヶ月で〇〇kgの減量に成功!」などキャッチーなタイトル・情報で溢れていました。
一方で、「体重が減ったけど下半身は痩せなかった…」「何をしても下半身が痩せない」など、下半身痩せに関する情報が少なく、下半身痩せ出来ずに悩んでいる方が多くいらっしゃることにも気がつきました。
体重を減らすでもない!筋肉をムキムキにするでもない!下半身太りのコンプレックスを解消したい!そんな使命感から下半身痩せ専門パーソナルトレーナーとしての活動がスタートしました。
1. 現在に至るまでの経緯…
私(飯沢芳明)は、山形の人口数千人の片田舎で生まれました。
小さい頃から何でも一人でやりたがるタイプで、友達と遊ぶよりも一人で遊んでいることが多い、集団行動が苦手な少年でした。
そんな少年が中学生になり、陸上競技(長距離走が専門)と出会いました。
何でも一人でやりたい彼は、部活の練習をサボってまで、自宅で1人トレーニングすることを好んでいました。幼少の頃から何も変わらないまま中学生になってしまったのです。
そんな彼の唯一の長所は…「のめり込んだことには徹底的に情報収集ができること」陸上と出会ったことでスポーツの専門書を読んだり、ネットで情報を検索してみたりと、みるみる長距離にのめり込んでいきました。
長距離ランナーとしての選手生活でしたが、練習量とは相まって全く目が出ず、大会ではいつもビリ…。
「こんなに努力しているのに、なぜ…」いつも悩んでしました。
それもそのはず、間違った知識によって食事量を削り過ぎた結果、慢性的な貧血を起こしていたのです。当時は「体重が軽ければタイムが伸びる!」と勘違いをしていて、体重を減らすためのカロリー管理を徹底していたのです。
しかし、私はあきらめず練習を重ね、ひたすらタイムを伸ばすことだけに注力していたのですが、それでもタイムは伸びず、大会は相変わらずビリのまま…。タイムが伸びないと、さらに食事を減らすようになり、
その結果どうなったか…「拒食症(きょしょくしょう)」です。
食べる事や胃に食べ物を入れる事が恐怖で仕方なかった…。食品の裏に書いてあるカロリー表示はほとんど暗記し、頭のなかでは常にカロリー計算をし「今日はあと〇kcal食べられるな」という事を常に考え生活する毎日。
そんな生活も高校2年の秋に「燃え尽き症候群」を経験し終わりを告げました。それまで熱中していたのに、全く走れなくなってしまった…。当時を振り返ると、走っていたというより、走らなければという義務感で走っていただけだったように思います。
「これまで5年間、自分なりに研鑽を重ねてきた結果がこれか…」
私は失意の底に落ちました。
そんな失意の底をさまよっている時、気晴らしに練習してみたハンマー投げが、人生を大きく変える転機となりました。(ハンマー投げとは室伏広治選手が行っているあの競技)
見よう見まねでハンマーを投げてみると、「あれ?飛んじゃった…」
長距離ランナーだった私は、超がつくほどのガリガリ(172cm 56kg)。ハンマー投げの選手としては、明らかに体格不足でしたが、砲丸投げを専攻していた友人より遠くに飛ばしてしまったのです!
6kgのハンマー(重り)が、自分の手元を離れ遠くに飛んでいく様はとても快感でした。「もっと遠くに飛ばしたい!」「もっと投げたい!」元来のめり込むのが激しい私は、気がつくとハンマー投げに夢中になっていました。
学校で誰よりも早く登校しハンマー投げの練習をし、夕方は陸上部全体の練習が終わってから夜8時までハンマー投げの練習をしました。誰よりも遅くまでグラウンドに残り練習をし、果ては夢のなかでも練習をしていました。
「このままハンマー投げだけで生活できたらいいなぁ~」
そんなことを考えていた高校3年生の夏。そろそろ今後の進路を問われる時期に来ていました。
2. 流されるままに入社した最初の会社
就職することを前提に入学した高校でしたので、はなから進学は考えていませんでしたが、ハンマー投げをしたいという願望を捨てきれず、進路指導の先生にもその事を相談をしてみました。
私「先生、陸上だけやれる学校とかないですかね」
先生「お前、就職希望だろ。時期的に進学は無理だからそのまま就職しろ」
その頃すでに1社の内定を頂いていたこともあり「就職するしかないか…」流されるままに就職を選択してしまったのでした。
当時の私はスポーツの専門学校がある事すら分からないの「情報弱者」。就職以外の道は選択肢にありませんでした。最初に入社した会社は、地元で一二を争う建設会社。
現場監督見習いとして入社しましたが、結局ハンマー投げの楽しさを捨てきれず、会社が終わった後に練習したり、休みの日は母校に行って練習させてもらったりと、学生時代の延長を楽しんでいました。
しかし、仕事がだんだん忙しくなり、ハンマー投げの練習どころではなくなってきたのです。
「ハンマー投げがしたいけど、仕事が終わらない…」
建設の現場は、工期よって労働時間もまちまち…。ハンマー投げの練習計画も次第に崩れていきました。「ハンマーを投げたい!でも仕事が残ってる…」「好きな事ができない人生ってなんなんだ?」自問自答する毎日…。
そんな時、耳元で誰かが囁いたのです!
「お前、このままでいいのか?やりたい事ができない人生でいいのか?」
思い立ったが吉日!私のなかでその声をかき消すことが出来なくなっていました。そして明くる日・・・、
上司「あれ?あいつ今日出社してる?」
上司「最近、反抗的な目してるからなぁ~、サボったんじゃないっすか?」
私は無断欠勤し、ハンマー投げの練習がしたくて山形から福島まで逃亡したのです(笑)
会社や家族からの連絡もすべてシャットダウンして、1日中思う存分ハンマー投げをしてみた。
「楽しい!やっぱり楽しい!!」
「一生に一回の人生、好きな事して生きてみよう!!」
好きな事だけをする人生にしよう!そう決意し、翌日会社に辞表を提出。彼の会社員生活はわずか3カ月で幕を閉じたのでした。
3. 宙ぶらりん … そして …
会社を辞めたのは良かったのですが、もちろん周囲の反応はよくはなく…。
父「3カ月で一体なにがわかるんだ!一人じゃ何もできないクセして!」
私「俺は一人で生きていく、それなら文句ないでしょ!」
私は実家を出ました。そして、福島に移り人生初の1人暮らしと、ハンマー投げを思う存分やってみる新生活をスタートさせたのでした。
福島に移り住み、飲食店でアルバイトをしながら、ハンマー投げに明け暮れる生活。朝から夕方までバイトして、そのままハンマー投げの練習。近くの高校の生徒に混じって練習させてもらい、また朝を迎える。一度きりの人生、自分のやりたい事をとことんやってみよう!そんな意気込みでハンマー投げをバカになるまでやってみたのです。
「最高だ!やっぱりあの時の決断は間違っていなかった!!」
最高の生活!この生活が続くのだろうと思ったのも束の間…。夢というのは、いざ手に入れてみると意外とあっさりしたもので、夢にまでみたハンマー投げ生活だったのに、数か月過ぎた頃には熱が冷めてきて…。とうとう練習すらまともに出来なくなっていました。
あんなに迷惑をかけて、あんなにわがままで実現させたこの生活。でも、もう熱がない…。完全に目標を見失っていました。
「俺…、一体なにやってんだろう…。」
自己嫌悪に陥り、罪滅ぼしのようにハンマー投げの練習をする毎日。熱を失った鉄を叩くほど、苦痛で虚しいことはありません。
「ハンマー好きだけど…今はもう…」
「一体どうしたらいいのだろう…」
落ち込む私でしたが、またしても転機が訪れました!
当時住んでいた家から、自転車で40分程離れた場所に県立図書館があり、私はそこでハンマー投げの練習に活かそうと様々な人体の勉強をしていたのです。その帰り道ふと目にした求人募集の張り紙に「ジムトレーナー募集」の文字を見つけました…。そして、閃いたのです!
「そうか!トレーナーになればずっとスポーツに関わって生きていける!」
私は、トレーナーになるという新たな目標を見つけました。
思い立ったが吉日!その日からトレーナーに関する情報を集めることにしました。実際にトレーナーをしている知り合いがいると聞けば、車で2時間かけて話しを聞きに行ったり、トレーナー募集の張り紙があったと聞けば、その場で電話して面接してもらったり。(今考えれば「ただの痛い男」でした。もちろん面接は不採用)
様々な求人を探しているなかで、宮城県仙台市のフィットネスクラブの面接が決まり、スーツ姿でバイトの面接に出かけることになりました。福島から仙台の面接会場まで車で2時間。
忘れない雪の降りしきる1月下旬。
面接官の二人を前にトレーナーになりたい熱を語り、その場で採用が決定!(ただのアルバイトですが…)今までの面接は熱がこもり過ぎていて逆に引かれていたので、その教訓を活かし適度な熱量を発揮してみたのです。
当時のことを考えると、福島から2時間かけて面接に来た少年を、よくぞ採用してくれた!と、採用担当のお二人には感謝するばかりです。
そんなわけで、彼のトレーナー人生がスタートすることになりました。県立図書館の帰り道に「トレーナー募集」の張り紙を見てから、わずか3カ月の出来事でした。
4. 試行錯誤からの有頂天!
仙台で「念願のトレーナー人生をスタート!」
毎日新しい発見の連続で、本当に刺激的な毎日。彼は水を得た魚のように、生き生きと貪るように勉強をしていきました。
ジムでお客様から頂いた質問はその日のうちに調べて返答し、休憩時間は解剖学の本を読み込み、まさにトレーナー漬けの生活。
しかし、ここでも彼ののめり込む性格が災いし、あれやこれやと調べていくうちに…「これは骨格から治さないといけないな…」という結論になり、トレーナーとして活動し1年が過ぎた頃には、私の興味は筋肉ではなく、骨から改善していくカイロプラクティックに向いていました。
「カイロプラクターになりたい!」そう思ってしまったら、もう誰も止めることが出来ません。思い立ったが吉日男は、カイロプラクティックの事しか考えられなくなり、その日を境にカイロプラクティックの情報を集めることに明け暮れていきました。
専門学校の資料を取り寄せたり、学費のローンを検討してみたりと…、まっしぐらに。ただ、情報収集し始めたのが2月中旬。4月入学を考えると時間がなかったのです。
しかし、そこはいつもの強行突破で、何とかかんとかで念願のカイロプラクティックの専門学校に入学することができました!
今では笑い話ですが、面接当日にスーツに運動シューズで行って、恥ずかしい想いをしたことがありますw
カイロプラクティックの専門学校。入学してみると、イメージ通りの「バラ色の生活」今までの独学の勉強とは違い、プロの講師が体系的にカラダの知識を教えてくれるので、学習スピードが今までの100倍になったかのようで、まさにドバドバと知識が入ってきました。
人間の持つ情熱とは凄まじいものがあるなと実感したわけです。
授業は一番前で食い入るように聴き、分からない箇所があれば先生を捕まえ質問攻め、技能練習も周りの生徒の協力を得て、カラダが壊れるほど練習しました。テストでは常に成績トップ!そして、学校で得た知識はジムのお客様に指導することで、お客様からの信頼も少しずつ得られるようになっていったのです。
当時からチャレンジ精神が旺盛でしたので、トレーナー生活を始めるなら、何か新しい事にも挑戦したいなぁと思い、トレーナー活動の他にも、スタジオインストラクターやボディビルにも取り組みました。
なかでも、スタジオインストラクターの活動は、私を大いに苦しめる事になりました。スタジオインストラクターになるには、ある程度の経験や度胸?が必要なのですが、何も知らない20歳の若造が、いきなり40名の大人の前に立たされスタジオレッスンをやるわけですから、完全にビビッてしまい、レッスンでは失敗の連続。
当時は毎週月曜の夜にレッスンを担当していたのですが、その時間が来るのが嫌で嫌で、頭に10円ハゲができてしまう程に思い詰めていました(笑)
ジムトレーナーの方が順調だっただけに、このスタジオインストラクターという仕事から早く逃げ出したい。そんな事ばかり考えていました。
しかし人生どこでどうなるか分からないもので…、このインストラクターという仕事は、今後の彼の人生を大きく変えてくれるキッカケになるのでした。インストラクターの仕事にも多少慣れてきた時に、当時の支配人から声がかかりました。
「飯沢くん、新しいプログラムを導入するから、東京で研修受けてきて」
バーベルを使った筋トレ系のスタジオプログラムを導入するというので、東京に3日間研修に行くことになったのですが、あまり気ののらないインストラクターの仕事ですから、決して楽しい気分ではありません。
しかし、小さい頃から東京に憧れを抱いていた彼にとってみれば、憧れの地に行けるまたとないチャンス!3日間東京を楽しんでこようと考えていました。
東京を知らない私からすると、東京という所は海千山千の凄い奴らが鎬を削っていると考えていたので、東京研修に行ったら生きて帰って来られるか…。そんな不安と期待も入り混じった状態で研修に臨んだのでした。
研修がスタートし、実際に東京で活動する人達とお話していると、田舎には無い視点や熱意があり、圧倒されるばかりで、
「やっぱ東京の人はすんげぇ~なぁ~」
「オラも東京さ住みでぇ~」
そんな憧れを持つようになったのです。
憧れの地であった東京。実際に行ってみるとやっぱり凄いところだった。またしても彼の好奇心がくすぐられてしまったのです。
3日間の東京研修がかなり良い影響を及ぼし、彼はスタジオインストラクターとして自信を獲得することができました。今までダメダメだったレッスンが嘘のように上手くいき、心からレッスンを楽しめるようになったのです。
素晴らしいレッスンとは、どの視点からみるかで変わりますが、インストラクター本人が一番楽しんでいるレッスンは、どれも素晴らしい内容です。参加するお客様もインストラクターの楽しそうな表情に引っ張られてしまうのです。
スタジオレッスンの楽しさを覚えた私のレッスンには、以前と変わってどんどん人が参加してくださるようになり、あっという間にスタジオが人で溢れかえりました。
「人を笑顔にできる仕事って最高だ!これぞ俺の天職だ!!」
ジムトレーナーとしても順調!カイロプラクターとしても成績優秀!スタジオレッスンも大人気!彼は完全に調子に乗っていました。
「俺には何でもできちゃうんだ!」と完全なる勘違い。
挙句の果てには…
「この才能を他の業界でも発揮してやる!」
「トレーナーはもう終わり!俺は東京で大金持ちになるんだ!!」
仕事は順風満帆でしたが、ジムのアルバイトだけで生計を立てていましたから、生活は苦しかったです。朝から夕方までバイト・夜は専門学校。他に収入源を増やすこともできず、まさに困窮していました。(手取り月12万円での生活)
そんな生活の苦しさと、根拠のない自信が災いし、「これだけ人気になれたんだから、他の業界でもすぐ活躍できる!」と安易に考えてしまい、もっと稼げる業界に転職して大儲けしてやろう!と誤った判断をしてしまいました。
そして選んだ業界は「営業」(理由は「稼げそうだから…」)
もちろん営業活動なんてしたことがありません。しかし、ピノキオの鼻のように伸び切っていた私は、周囲の反対を押し切り営業会社に転職を決めてしまったのです。
その会社は「東京」に支社があり、引っ越し費用も負担してくれるという事でしたので、その会社に就職を決めてしまったのです。
どんな形であれ訪れた「東京進出」。
私は浮足立っていました。
5. どん底 … そして復帰
憧れの東京生活がスタート!
毎日見るもの聞くものが新鮮で、「営業マンとして大金持ちになってやるんだ!」という意気込みをより一層高めてくれました。
バラ色の人生が始まるんだと意気揚々乗り込んだのはいいですが、彼が入社した会社は「飛び込み営業」。
電話でのアポ取りから訪問まで、全てを一人で担うやり方。営業未経験のうえ気が弱く、押しが弱い私。そんな人間にアポが取れるわけもなく…。数字が取れない日々に、少しずつ元気を無くしていきました。
「まぁ、たまたまだな」
「俺様は何でもできるんだ!そのうち凄いことになるぞ~!!」
しかし、その後も1件のアポも取ることができず、
「いや…、たまたまだよ、たまたま…」
次第に元気をなくしていきました。入社から2ヵ月が経過した頃、事務所に残って電話がけをしているのは私だけ…
「俺…、そろそろやばいかもな…」
数字が取れない日々。上司から重圧、電話口から聞こえる罵声、周りの仲間の冷たい視線…。有頂天になっていた分、そこからの転落は落差があり、気が付くと私は「鬱(うつ)」になっていました。
「あんな大口叩いて東京来たけど、俺…全然ダメだな…」
それからの私はうつ症状に悩まされ、夜中なんども悪夢で目が覚め、どうしようもない不安が襲い、吐き気が止まらない。日曜のサザエさんで呼吸が乱れ、涙が止まらなくなっていました。
そんな鬱々としている時に、知人からフィットネスクラブの「無料チケット」をもらい、久しぶりスタジオレッスンに参加してみたのです。
今までレッスンを提供する側だった私が、今度は参加者としてレッスンを受けてみる…。
フィットネスには見切りをつける!と豪語して辞めた手前、こうしてレッスンを受けている自分がどこか情けない…。でも、レッスンがスタートし音楽がかかると自然とカラダが反応している自分に気が付きました。
カラダを動かし汗を流している間は嫌なことや、鬱々とした気分が全て吹き飛んで、本当に心から楽しい!とそんな風に自然と思えていたのです。
「楽しい!カラダを動かすことがこんなに楽しいなんて…」
ふと周りに目を向けてみると、私と同じように参加者みんなが笑顔になっていることに気が付きました。レッスンに参加する側に立ってはじめて気が付くことがあったのです。
「そうか…、仙台で俺のレッスンに参加してくれていた人達は、こんな気持ちでレッスンに参加してくれていたんだ…」
仕事の人間関係や家庭など、生きていれば自然と嫌なことも出てきます。そんな気持ちから解放してくれるスタジオレッスン。こんな楽しい気持ちになれて、一瞬でも嫌な事から解放されるスタジオレッスン。それを投げ出した自分が情けない。
「俺はなんて身勝手な男なんだ…」
「自分のことばかり考えて、人を笑顔にできるこんな素晴らしい仕事から逃げてしまった…」自然と涙が溢れてきました。
みんなの期待を裏切り、私利私欲のためだけに業界を去ったことに後悔しました。仙台でお世話になった人達の笑顔が走馬灯のように蘇り、私は泣きました。泣いて泣いて、どん底まで落ちていった時に…… ぬくっと起き上がったのです!
「よし、復帰しよう…、またフィットネス業界に復帰する!!」
私は翌日、会社に辞表を提出しました。
上司からは物凄い剣幕でまくし立てられ、ぼろかすに罵られました。しかし、私の決意は固く、決して動じることなくどんなに叱責されても微動だにしませんでした。まるで切腹を決めた武士のように、ただそこに佇んでいました。
そんな私にとうとう上司も折れて辞表を受理してくれました。会社を後にしようと思ったら、当時の部長から呼び出されこんな話をされました。
「飯沢、俺はこの厳しい業界で働いている分、たくさん人の汚い部分を見てきた。退職する奴はたいてい親が病気になったの、実家に帰るだのと見え透いた嘘をついていく。飯沢、どんな事があっても汚いウソだけはつくな!正直に生きていけ」
それは私の人生観を変えられた大切な言葉として今も胸の奥に刺さっています。新たな決意を持って、私は再びフィットネス業界に復帰することになったのでした。
6. 極貧…そして独立
フィットネス業界に再び戻り、今度はアルバイトとしてではなく、社員としてきっちり関わることにしました。
目的はただひとつ!
「スタジオレッスンでお客様に笑顔の恩返しをすること!」
日常のあれやこれやを忘れて、心の奥底から「楽しい!」という感情をお届けしたかったのです。カッコイイのはここまでで、社員といっても安月給で、プライベートは相変わらずの極貧状態(笑)
当時21歳。練馬のボロアパートでゴキ○リと一緒に生活しているような酷い生活。食費は1日500円。税金の督促状に血の気が引いて、家賃も常に滞納状態を維持しながらのギリギリ生活でした。結局、仙台にいる時と何も変わらない状態でした。
でも、それでも良かったのです。
スタジオレッスンが出来て、大好きなフィットネスの仕事に関われて。そして、たくさんの笑顔に囲まれて…。お金は苦しいものがありましたが、それで良かったのです。(ある程度、覚悟はしていましたし)
私が当時勤務していたフィットネスクラブは関東に5店舗ありましたが、ただの店舗社員にも関わらず、3店舗でレギュラーレッスンを担当し、フリーのインストラクターみたいな事をさせてもらってました(おかげで睡眠時間は3時間程でしたが…)
そんな順調にみえた正社員生活でしたが、今度は会社の業績が悪化し、このまま残って社員を続けるか?転職か?それともフリーのインストラクターとして独立するか?決断を迫られることになったのです。
私が迷っていると、当時の総支配人がこんな言葉をかけてくれました。
「飯沢、俺はお前ほど楽しそうにスタジオレッスンをしている奴を見たことがない。お前はこの業界にいないとダメだ。転職はせずにここに残れ!」
私は迷わずインストラクターとして独立の道を選びました。
この時の選択が無ければ、今の私はありませんでした。なので、当時の総支配人からの言葉は、とても貴重でした。
7. 情報不足が原因で食の喜びがゼロに…
「情報弱者」はいつも損をします。
私は19~20歳でボディビルにも挑戦しました。物事にのめり込んでしまうタイプの私は、トレーナーを始めるにあたって「どうせ筋トレ指導をするなら、自分でも筋トレをしてみよう!どうせやるならボディビルまでやってみよう!」と決めて、ボディビルの世界にも足を踏み入れることにしました。
・・・がしかし!ここでも挫折体験が待っていたのです。
ボディビルダーが、あのムキムキボディに仕上げていく時には、はじめに体重を増やし、そして筋肉をつけてから、一気に減量してあのムキムキボディに仕上げていきます。
ですが、私の場合は体重が増えにくい体質だったので、毎日一生懸命に食べても、なかなか体重が増えなかったのです。
メインとなる食事はもちろんお肉が中心。プロテインも3時間おきに飲んで、ありとあらゆる策を講じましたが、それでも体重は増えませんでした。
そんな生活を続けていると、食事を摂る行為そのものが苦痛になってくるのです…。
「あぁ、また3時間経った…プロテインを飲まなくちゃ」
「食べたくない…でも食べないと痩せてしまう…」
無理やり食べることへの義務感、体重が減ってしまうことへの恐怖。カラダよりも心が先に疲れていました。その結果…「食への喜びがゼロ」になりました。
当時を振り返って思うのは、明らかに間違った方法をしていたことです。無理やり食事の量を増やさなくても、体重を増やす方法はありましたが、当時はそれを教えてくれる人はおらず…。結果、食べることへの喜びを無くしてしまったのです。
これらはすべて「情報不足」が原因で起きてしまったことなのです。
もしも、当時の私に正しいやり方を指導してくれる人がいたとしたら、どれだけ救われたことか…。「君に合う方法はいくらでもある。だから無理に何かをしたり、我慢しなくていいんだよ」そんな言葉をかけてくれる人がいたら、きっと結果も違っていたのだろうなと。
情報が不足していたり、正しいやり方が出来ていなかったりすると、どんなに努力しても結果は出ません。最悪の場合「心を病みます」
私は「正しいやり方」を指導することの大切さを身をもって体験しています。それが今の下半身痩せ指導にも活かされています。
10代で間違ったやり方をするあまり「貧血」になったり、「拒食症」も経験したからこそ理解できたこと。正しいやり方を知ることの重要性を私はこれからも発信していきます。
8. ようやく見つけた恩返し
2010年にフリーのインストラクターとして独立しました!
独立とはカッコ良い言葉ですが、駆け出しのフリーランスには収入は無く、相変わらず極貧生活。
スタジオインストラクターは、各地にあるフィットネスクラブからお仕事を戴いて生計を立てます。近場のフィットネスクラブからお仕事を戴ければ効率よく仕事ができるのですが、新人インストラクターにそのような仕事はなく、当時は練馬から茅ケ崎まで電車を2時間乗り継いて仕事をすることもありました。
お金が無くて、次の仕事場まで行くための交通費が出せない!そんな状況すらありました。本当の極貧ですwww
そんな貧乏生活でしたが、2年もすると少しずつ仕事も増え、収入も安定するようになってきました。収入が安定してくると、次の展望を見れるようになってくるのです。
ある日のこと、参加者の方がきてこんな話をしてくれました。
「先生、わたし怪我しちゃってしばらく休まなくちゃいけなくなったの」
怪我をしてレッスンに出られない…。
そんな事実がある事を知ってから、スタジオレッスンに参加している人をみると、動きにくそうにレッスンしている方がいたり、怪我をしながらもレッスンに参加している人がいる事に気が付きました。私はそんな状況にもどかしさを感じるようになっていました。
「スタジオレッスンは楽しいけど、怪我してたら楽しめないじゃん!」
インストラクターは「fun(楽しさ)」を提供するお仕事ですが、私はトレーナー・カイロプラクターとして、カラダを根本から変えることをそもそもの基本理念としていたので、この状況を変えたい!と思い始めたのです。
「楽しいレッスンは誰にでも提供できるけど、怪我しないためのケアは自分じゃないと伝えられない!」
そんな事で、楽しむの前にカラダをケアすることの重要性を伝えるために、私は再びパーソナルトレーナーとして活動を開始するようになりました。
怪我をしない為のカラダの使い方(動かし方)、カラダのケアのやり方を指導しているうちに、お客様からこんな事を言われるようになりました。
「先生に指導をしてもらってから、O脚が治ってきたのよ」
私は女性を担当する機会が多かったのですが、たくさんのお客様のご要望を伺っていると「スカートが穿けるようになりたい」「パンツを穿いた時の後ろ姿に自信をつけたい」など、脚へのコンプレックスを抱えている方が多くいる事に気がつきました。
そんな皆さんの話を聴いていると、様々な努力をしている事に気がつきます。ジムでのトレーニングはもちろんのこと、食事制限もするし、エステに通う。ありとあらゆる努力をしたが、それでも解消できない…。
私は気が付きました!「この状況は前に経験したことがある!」
私自身がボディビルを一生懸命やるなかで体重が増えずに間違ったやり方をしてしまったり、陸上をやるなかでたくさんの間違った努力をしたり…、その時の辛い経験と似ていました。
「自分も辛い経験をした!そんな人をもう増やしてはいけない!」
下半身痩せ出来ずに悩んでいる方々は、たくさんの努力をしています。しかし、唯一抜けている考え方あるとすれば「下半身痩せの正しい情報」だったのです。下半身痩せの情報とは「カラダの正しい使い方や順番」。
「これだっ!」
カラダ中に電気が走りました…。私なら下半身痩せ出来ずに悩む人の役に立てる!今まで自分が経験してきたこと。努力しても結果が出ないもどかしさ…、全てに共感しながら、正しいやり方を指導できる!
今までたくさんの恩恵を与えてくれたフィットネスという仕事。
「下半身が痩せるカラダの使い方」を広めることで、下半身痩せ出来ずに悩む方々の「困り顔」を「笑顔」に変えることができれば、ようやくフィットネスに恩返しができる!
そして私は、下半身痩せの専門ジムを開業する決意をしました!
下半身コンプレックスで悩むすべての人の「困り顔」を「笑顔」に変えるために・・・
9. そして現在…
2015年9月 港区芝公園に下半身痩せ専門パーソナルジム Style A 芝公園をOPENしました。(ちなみに、お店の名前にの由来は「えぇ~スタイルやなぁ~」と言われることを目指してもらえるよう「スタイルエー」にしました。ダジャレですw)
下半身コンプレックスに悩む人の「困り顔」を「笑顔」に変えるという想いを引っさげて日々たくさんの方々と接しています。
開業して約4年。その間およそ750名以上の方々のお悩みをヒヤリングし下半身コンプレックスを解消してきました。しかし、一人で出来ることには限界がありました。
昔のことわざでこんな言葉があります。
「速く行きたければ一人で行け。遠くへ行きたければみんなで行け」
私は今まで速く行くことに拘っていました。開業して4年間は様々な思考錯誤をして、情報発信もしてきました。しかし、私ひとりでは声が小さすぎて、まだまだ悩みを解消できない方が多くいらっしゃいます。
私は決断しました!
より多くの方に「笑顔」になってもらう為、チームになってより大きな声が出せるようになろうと!2020年から舞台を銀座に移し、私は引き続き「下半身痩せ指導」を行っていきます。私にとっては新たなステージです。
コンプレックスを抱えたまま悩んでいる方はまだまだたくさんいます。そんな皆さんに正しい情報を届けたい!情報不足が原因で自分と同じ苦しい想いをして欲しくない!
今まで私の人生に大きな影響を与えてくれたフィットネスに恩返しするため朝7時から夜10時まで、真摯に「下半身痩せ」という事象に向き合う日々を過ごしています。
高校時代に41.5℃の熱でぶっ倒れ、病院の天井をみつめながら「このまま死んじゃうのかな」と本気で人生を考えたあの頃。「死んだら終わりだ!思い通りの人生を生きよう!」と誓ったあの頃から現在。
これまでフィットネスと決別したり、また復帰してみたりしながらようやく辿り着いたこの「天職」
これからもたくさんの方の笑顔に出逢えるように。そして多くの方の「困り顔」を「笑顔」に変えることができるよう日々精進です。
長い長い文章にお付き合いいただきありがとうございました。
【お知らせ】
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