
デジタル教科書時代について思うこと
先日、デジタル教科書も正式に教科書として認められ、学校で使用されるというニュースを見た。
我が家には小・中・高と子供が3人いるが、タブレットで教材を見たり宿題を提出したりしている。
「新しい時代だな」と思う。
ケータイもタブレットもさくさく使うし、学校でなにか発表するにも自作のパワーポイントの資料を使う。
機械を使いこなすのを感心と尊敬の眼差しで見る反面、「え?ここができないの?」とバランスが悪いと感じることもある。
例えば「漢字」。
子供に読ませてみると、頓珍漢な読み方をしたり、読み方は合っていてもイントネーションがおかしいものが多くてびっくりする。
発音はその場で指摘して直させ、読み方や意味は本人に調べさせるのだが、その時に子供はよくケータイを使う。
すると、その後読めるようになるが、実際の会話や文章を書くときには、まず使わない。
使うにしても、普段使うタブレットなどの機械には変換機能がついているので、いざ書こうとしても正確に「書けない」。
こんな感じで、記憶の片隅に「こんなのあったな」という感覚はあっても、「読む・書く・話す」の中で「使う」までに至らない。
英語もそうだ。
英語に関しては中学生の娘からDUOLINGO(デュオリンゴ)というアプリを勧められ、娘は英語、私は学んだことのないドイツ語をやっている。
先日私はドイツ語検定を受けたのだが、その分野別の成績を見て驚いた。
なんと「リスニング満点💯」
ドイツ語は完全な独学。
主な勉強法はこのデュオリンゴとNHKラジオだ。
周りにドイツ人はもちろん、ドイツ語を話す人もいないので、勉強以外にドイツ語に触れる機会がない。
そんな環境でも(事前にドイツ語検定の模試を解いてみてわかったのだが)リスニングに関しては問題の傾向を押さえておけば、とくに難しく感じなかった(ものすごく緊張はしたが)。
それよりも大変だったのは語彙や文法。
40代半ばの記憶力が落ちた頭では、「聞く」「見る」だけではとても身につかない。
「聞く」だけでは、もはや問題そのものやその解説なんかも、理解できないんである。
問題を「見て」「聞いて」「書いて」「発音して」をしないと、そしてそれを繰り返さないとまったく定着しなかった。
このことを踏まえて思うこと。
手と口を使わずに勉強するのは、耳は鍛えられるが、音読したり書いたり話したり等アウトプットに問題が出てくるのではないか、ということ。
いろんなデジタル化が進んで、仕事でもパソコンを使うことが多い中で、子供のうちにデジタル機器を使うことは、もはや時代流れ的にも必須だろう。
しかし、心配なのは「読めない、話せない、書けない」こと。
もっと言えば、使わないことで意味すら理解できないこと。
職場で一切話さずコミュニケーションを取るのは厳しくないだろうか?
すぐそばいる人へのちょっとしたメモまで、印刷したりメールで送る日が来るのだろうか?
文書がデジタルで送られる時代になってきたが、その文書作りや読みあげだけでなく、人間に理解させることまでもAI任せになる日が来るのだろうか?
私は、人が人とつきあう限り、それは難しいんじゃなかろうかと感じている。
昔より頻度は減ってもなくなることはないし、むしろ頻度が少なくなるからこそ、そこが重要になってくるのではないか、と。
学校がデジタルな教育を増やしてくれる流れになってきたので、せめて家庭では「読む・書く・話す」をフォローしていこうと思う。