
【小説】「九龍城流謫」
私が九龍城に棲みついてどれだけの時間が経っただろう。ここでは、法律は愚か、国籍も、常識も、時間の概念すら曖昧な不法スラムな空間だ。
訳あって、外界を闊歩出来ない私は、アメリカの犯罪者が迷わずメキシコを目指すように、アジア最大の非合法スラムである香港の九龍城に籠城を決め込んだ。
ここは元々、歴史的な治外法権の建物に不法占拠が横行し、国籍不明、建物は勝手に増改築を繰り返し、光熱水道は盗用していた時代からまともに公共サービスを利用しはじめたのは最近の話だ。
広大な敷地に乱立する数百のビルとビルが蟻塚の如く接続されており、必然的に陽の光のさす場所は限られ、暗闇の中に、頼りない蛍光灯がチカチカと鈍く光っている。剥き出しのケーブルや電線類が束のように張り巡らされ、水が小川のように階段を流れる。時の洗練を受け建物の原型はほぼ残っていない。そしてこの蟻塚の如きビルの無数のビル群の中を地面に降りる事なく往来が出来、衣食住、病院だけでなく、ドラッグや女、ギャンブル、武器に至るまで全てこの城の中で手に入るのだ。マフィアやドラックディーラーにとっては都合の良い場所でもあり、外部からの侵入者に対しては容赦が無く、カメラは壊され、時には城から出られなかった者も少なくない。

私は行きつけの店でいつものように雲呑麺を啜り、青島ビールを飲みながら、小説に目を落とす。暗闇の中、今日がいつ、何時なのかすらはっきりしないし、知る必要も無い。
仕事は無い。
元々は小さな商社のような仕事から危ない取引に関わってしまい、表に出られない立場にいる。それでも貿易でまとまった金はあるので、今はそれを信頼出来る知人を通じて株式投資などで増やしている。毎日何もして無い割に、ここの家賃や生活費、遊び代を差し引いても、残高はむしろ増えているくらいだ。だからリスクを冒して働かなくてもいいだろう、と日々無為に過ごしているわけだが。
毎日、気が向いたら起き出し、部屋のそばの陳さんの店で酔い覚ましがてら海鮮粥を流し込み、何日か前の新聞に目を通す。
昼は少し離れた場所の雲呑麺屋でビールを飲みながら、小説を読んで過ごす。顔見知りと会うと、どこの店が夜逃げしたとか、ドラッグディーラーの誰それが刺された、といったどうでも良い情報交換をする。古本屋の主人に取り寄せを頼んだ小説を受け取り、麻雀の面子に声がかかれば参加する。気が向いたら屋上に登り、鳩に餌をやりながら、屋上を掠めながら飛ぶ飛行機を眺め、時折、その先にある国を想像したりする。
夜は酒やドラッグ、気が向いたら女を買ったりして時間を過ごしている。酒はジョニーウォーカーをちびちび飲む。ドラッグはマリファナ程度だ。女は情が移らないように極力同じ女を相手にしないようにしている。そして言うまでもなく、どれも時間潰し以上の意味は無い。それよりも小説の世界は、今の私の対極的に、地理や時間を超越出来るのでいつまでものめり込んでいられる。「百年の孤独」など、まるで自分のことを書かれているかのような錯覚を覚え、何度も繰り返し読んでいる。
私の部屋は、14階から15階相当。正確にはよく分からない。一応3204号室という部屋番号はあるが、隣は4856号室で何の意味も持たない。郵便が来ることもないので特段困らないが。城の中心部に近く、外部からの訪問者に出くわすことも少ない。他の部屋と同様に狭く、窓は無く、トイレもバスも無いが、家賃は4千香港ドル、約4万円だ(1980年代の話)。家具と言っても前の住人が置いていった粗末なベッドと、テーブルと椅子。炊事をする場所は無いので食器類も無く、基本は外食だ。場所を占めているのは少しの衣類と小説類、ウイスキーが数本とペットボトルの水くらいだ。電灯以外の電気製品は時計すら無い。
街には出ない。この数年、この城を出た記憶も無い。特に街に出る理由も無い。
収監されているわけでは無いが、欲しいものがあれば、街にあるモノは何でも手に入る。家具が必要なら屋上に行けば、不要な住人が捨てていったものが手に入る。
私の部屋近辺で用は足りるため、城全体は知らないエリアがほとんどで、決まったルート以外に出向いて、元の場所に戻れる自信も無い。迷宮そのものだが、この城の中で道を聞くものは余所者以外ではまずいない。
親兄弟、恋人、知人からは私は死んだ者とされているはずだ。しかし、元々人間関係が希薄で、ベタベタした関係を好まない私にはむしろ好機だった。この城に入った時に、世間は捨てる覚悟で、出家した坊さんのような気分でいるのはむしろ清々しい。
時間も空間もエアポケットのような場所に居続けていると、この世界からたった一人切り離された気持ちになる。私が正常な意識でいられるのは、酒でもドラッグでも無く、瞑想だ。たまたまチベットから来た仏僧が九龍に出入りしており、暇つぶしに瞑想に付き合ったのがきっかけで、毎日習慣のようになっている。呼吸に意識を向けることで、過去の後悔も、将来への期待も不安も消え失せる。ともすると密閉された暗闇の中で狂気に引き摺り込まれそうになるが、瞑想は今ここに引き止めてくれる強力な力がある。だからではないが、安心して、怠惰で先を見通せない毎日を、つまらない欲望を満たしながら、味わうように過ごすことが出来ている。それは例えるならば、スナイパーが、狙撃前に呼吸を整えるのにどこか似ているのかもしれない。
前からこの城には、秘密のバーがあると、聞いたことがある。誰もが知っている話だが、実際に行った者は聞いたことがない。このバーには選ばれた人間しか足を踏み込めないと言われており、まるでこの城の中の都市伝説のような場所だ。
徳を積んだ人間とは言わないが、何か特別な人間にしか扉が開かない場所だという。
この城のどこかにあるこのバーで、マティーニを飲めれば、私は消滅するようにこの城を出ても良いと考えている。だが、それはまだまだ先の話だ。
