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子どものオンライン居場所に思うこと①

子どもの居場所のオンライン化が、世の中の一部で急速に進んで約1ヶ月とちょい。ざっくり、いくつかの要素を感じている。備忘録として、今感じていることをまとめてみる。
※5/1現在、なんだかずっと手直ししている。なにをイシューにするのかがまとまらない。脈絡がなくなるやもしれないが、いったん、徒然なるままに書き足す。


まず、参加者を「オンライン」へ誘い出す工夫について。


① 第三者からの背中押し(保護者がそれを担うケースが多い)
② コンテンツそのものの「引力」
③ 既存の関係性による「引力」



整理するならば、こんな感じに整理されるだろうか。
要は、リアルと大きな差はない。

打ち手は相互に関係性がある。例えば、生活リズムが整うというコンテンツの引力に魅かれた保護者が、自身の子どもの背中を押すなど、だ。
きっかけは第三者からの背中押しだったが、次第にコンテンツ自体を魅力的に感じ、関係性の引力も生まれ継続利用するケースが増えてきている(ように見える)。

【コロナ禍以前になかった居場所】は、①②の打ち出し方がとてもうまい。意識の高い、新しく市場に登場した製品やサービスをいち早く利用するユーザー層を巧みに取り込んでいるようにみえる。

事業初期において③は【コロナ禍以前にある居場所】が持つ強みだ。なじみのスタッフがいるから参加する、友達にあえるから参加する、などが生まれているように思う。


【コロナ禍以前になかった居場所】がいま、何に直面しているのかは、正直あんまり情報がない。ただ、伝え聞く話だと、割と堅調に利用者数を増やしているところが多いように思う。まだまだ、とくに公立校において休校中の学校対応がままならない中、休校期間が長引けば長引くほど、「学校外の居場所」としての存在感は増すと予想する。一斉休校で顕在化した学校の福祉的ニーズを、一定数拾ってい続けるのではと思う。

一方で、【コロナ禍以前にある居場所】がオンラインに移行するなかで直面しているのは、「これまでとちがう」という違和感だ。オンライン事業に取り組むスタッフはこれを乗り越えつつあるが、利用者は果たしてどうか。適切に、「前はこうだった」を忘れ、これからの形を受け入れる。この学習棄却(アンラーニング)という行為は、「既存」のイメージがあればあるほど難しい。この変化は、始まってまだ1カ月程度という期間では、なかなか時間が足りない印象がある。


そもそも提供していたサービスの、オンラインそのものへの相性があるやもしれない。変な日本語になるが、居場所というのは「居る」というより「居られる」といった、やわらかな表現で語られることが多い。そこにやってくる子どもたちというのは、必ずしも能動的で主体的な人間ばかりではない。しかしながらオンラインの場というのは能動的なかかわりが求められがちで、「居られる」という感覚は得にくいように感じる。不思議と、個が際立つのだ。黒子のように静かに場を利用したい子たちは、なかなかオンラインの場はしんどいだろう。こうした層がどうしているのか。どういうサービスが必要なのか。そこが一番見えない。

「居られる」という表現以外には、「ふらっと立ち寄る」的な感覚も近しく思う。今、失われているのはこういうものなのかもしれない。「ゆるいつながり」をどう補完するか、このあたりはまだ、リアルに匹敵するオンラインでの打ち手が見いだせていない感覚がある。オンラインはあくまでリアルを代替するものではなく補完するものであるわけで、万能ではない。オンラインにすりゃなんでも解決するわけではない。1週半くらいまわって、少しだけ冷静にそう感じている。(希望は捨てないが)

一部で再現しようとする試みもうまれつつある。今後が楽しみだ。



Stayhomeの名のもとに、子どもたちの居場所の幅が制限される社会はもう少し続きそうだ。

制約の中でも、少しでも選択肢の多様性を作ることが必要だと思う立場の人間です。この4月、児童館や学童の世界を俯瞰してみてなおさら思うけれど、オンラインはその手法の一つにしかすぎず、特に対小学生に対しては、工作キットの配布など、リアルの良さを生かした取り組みもあふれている。取り組みについては、こちら※岩手県の子どもの森の工作キットは問い合わせが殺到しているらしい。こんなときこそ遊びが必要。

引き続き、正解はわからない日々が続く。社会が不健全だけど、いろんな人がいろんな打ち手を考え続けていることだけは、むしろ健全だ。健全になったという気すらする。その方法論として、「オンラインの居場所」はきっとまだまだ進化する。楽しみだ。


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