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「仲の町3バカトリオどたばだ奮闘記」 第2章 町立 勝浦小学校19

「仲の町3バカトリオどたばだ奮闘記」
第2章 町立 勝浦小学校19
 
 
はい、所は、仲の町僕の家。小学4年も終わった春休みのことである。「なあ、タケちゃん、5年生になったら少年野球せえへんの。脇仲チーム。やまちゃんと、西谷のまーぼー入るらしいで。」とナカシャは僕の家の僕の部屋で冒険王をめくりながら僕に話しかけた。「少年野球か、空手も始めたしな。でも空手は夜やし。うーん、どうしょうかな。」とお母ちゃんの出してくれたピーナッツサブレと少し濃いめのカルピスを飲みながら僕はそう答えた。その頃の小学生はもちろんJリーグなどないのでほとんど野球が好きで各区で5年、6年生中心に少年野球のチームがあり、大会とかあった。僕も少しは5年になったら野球やりたいなとは、思っていたがタコちゃんと山ちゃんに誘われ、そしてお父ちゃんが先生のひとりである空手を習い始めていた。「う~ん。やりたいけどな。新しいミズノのグローブ、ハマチスポーツでこうてもろたとこやしなぁ。山ちゃんもやるんやしなぁ。」
同じ空手を習っている山ちゃんが少年野球に入るのが僕の背中を押した。「俺はやるで。山ちゃんやろ、まーぼーやろ、俺やろ。メンバーたらんゆうて内田のおいさん誰かおらんか言いやったんや。」とナカシャ。「内田のおっさん、世話役なんやろ、あのおっさん、何でもやりよるね。ボーイスカウトもやりやるんやろ。家の弟入ったもん」と僕。「なあ、タケちゃんやろらよ。」「よし、分かった、やろか」そして僕らは5年生になったと同時に脇仲少年野球チームに入ったのである。あっ、脇仲というのは旧勝浦は、6区に分かれていて1区大勝浦、2区脇入、3区僕らの仲の町、4区小阪・神明、5区北浜、6区築地、この6区の他に町内には朝日町、天満、浜の宮などの地区がある。この区ごとに少年野球チームがあったのだが、悲しいかな2区の脇入と仲の町は子供の数が少なく2区と3区で1チームであった。だから名前は脇仲である。脇仲チームの6年生は立木君や、山縣君(たぶん入っていたと思うが違ったらすいません)、そして5年の山ちゃん、西谷のまーぼー、ナカシャ、僕、一つ下のさとる等でなんとか1チーム作っていたと思う。
 
練習は日曜日にお寺の境内だった。(結構ひろい空き地みたいになっていた)。人数が少なかったので全員レギュラーだったと思う。まーぼーはピッチャー、ナカシャはファースト、山ちゃん、セカンド、僕はなんとキャッチャーだった。さとるは、リリーフピッチャーでサードだった。(あとのメンバーはあまり覚えてません。すいません。)このチームあまりうまくなかったが、かけ声だけはよかった。「わっきょーい、りーりーりー」エラーしても「どんまい、どんまい」と大声でエラーした者がいう。練習は非常に楽しかった。
そして大会にも出たり他の区との練習試合もたまに行った。天満区のチームには、せいし君やきっかわ君などがいた。もちろん脇仲チームはボロ負けであった。試合中も「わっきょーい、りーりーりー」と脇仲チームはうるさい。もちろんエラーしても「どんまい、どんまい」である。4区には、同級生のアンちゃん、一つ下のとさ君、たなか君もいた。ピッチャーのとさ君は小学生でカーブを投げた。僕ら脇仲チームは、その曲がる球におったまげて手も足も出なかった。この試合もボロ負け。5区には、はまっちゃんや、サル君らがいた。ここも強かった。なにしろ子供の数が多い。そして1区には、あの年哉君がいた。ここも強かった。子供の数も多いし。僕たちの脇仲チームは弱かったがちゃんとユニフォームがあった。
胸の所に漢字で脇仲、そして僕は5、6年とも背番号2番、キャッチャーだった。
残念ながら僕は野球は、中学に入ると全然やらなくなったが、これもまた小学生の時の良き思い出である。今はおそらく各区の少年野球チームは無いのだろうなぁ。良き思い出である。               つづく。
 
 

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吉村 剛
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