見出し画像

月と太陽

 菜月は、すぐ顔に出る。私と違って、とてもわかりやすい人だと思う。
「ねっ、いい人でしょ?」
 菜月がテーブルに身を乗り出して言った。私は、うん、と答えながら腕時計をちらりと見た。このお店に入ってから、もうすぐ一時間になる。菜月が男から教えてもらったというイタリアンのお店。窓際の席からはネオン街とそれを見下ろす三日月が見える。ネオン街のけばけばしい色彩と比べて黒と白しかない夜空は地味だけれど、私には夜空の方がずっと魅力的だ。ネオン街が背伸びをした十代なら、夜空は色気たっぷりの三十代。ちょうどその間にいる私たちは、この先、どんな女になるのだろう。

「聞いてる?」
 私は、もちろん、と笑顔で答えた。週に一度のノー残業デーで一緒に食事をするとき、菜月は決まって男の話をする。私が訊くのではなく、菜月が一方的に話すのだ。それに話を聞かなくても、菜月と付き合っている男がどんな趣味をしているのか、その顔を見ればなんとなくわかる。
 明るめのファンデーション、頬にふわりとのせたピンクのチーク、大きな目を垂れ目に見せる目尻のアイライン、前髪を揃えた明るい栗色のボブヘア。きっと今付き合っている男はロリィタ系が好きなのだろう。意外とマニアックな趣味がある人かもしれない。

「映画に誘われたんだけどさ、ただね、それがアニメなんだよね。それも知らないやつ」
 菜月の可愛らしい顔にはロリィタ系のメイクが似合うと思う。スーツではなく、ちゃんとしたロリィタ系の服を着て、ふりふりのついた白い傘を持てばお人形さんのようだ。三日月に寄りかかれば、ポストカードやカレンダーでよく見る幻想的なイラストのヒロインにもなる。個性的な男ほどこういう顔を好むのか、逆に地味な男ほど刺激を求めてこういう顔を欲しがるのか、その答えを私は知らない。
 考えてみれば、私は一度も菜月の男を見たことがない。お互いに恋愛の話をしても、相手の顔は絶対に見せない。たった三年の付き合いでそんな約束事ができるほど、趣味が合わない、とお互いにわかっているから。

「いい人なんだけど、趣味が合わないんだよね。陽奈はアニメとか見る?」
 私は、見ないよ、と答えて白ワインを飲んだ。春にぴったりな軽い口当たりだった。


 今日のお店は大衆居酒屋だった。最近、菜月が通っているらしいそのお店は、一階が立ち飲み、二階がテーブル席で、ビキニ姿の女性がビールを片手に微笑んでいるポスターや曲名に覚えのあるレコードが壁に貼られた、昭和を意識した内装をしていた。客層はサラリーマンから学生まで様々。ただ、女だけで来ているのは私たちだけだった。

 私は串焼きを食べて、向かいに座る菜月に意識を戻した。今日も菜月はよく喋る。どうやらまた男が変わったらしい。菜月の顔に、そう書いていた。二重をくっきりとさせるアイライン、つけまつ毛にたんまりと盛ったマスカラ、真っ赤なリップ、強めにカールを効かせたロングヘア。可愛らしい顔が派手になっている。今度の男はギャル系が好きなのかもしれない。このお店も、その男から紹介されたのだろう。

「どうせなら、その人が好きな自分でありたいって思うでしょ?」
 菜月が赤くなった目で私に訴えた。先週の日曜日、女友達とお酒を飲んだときに色々と注意されたらしい。特に付き合う男はもちろん、その男に合わせて化粧や服装、時には好みまでがらりと変わることをしつこく言われたらしく、菜月としては不服なようだった。
「私は努力してるだけなのに。みんなだってするでしょ?」
 そうだね、とできるだけ優しい声で私は答えた。菜月の気持ちはわかる。でも、私には無理だ。菜月のように自分をころころ変えられない。私は菜月のように器用じゃない。それに、相手のためだと思って努力したところで、その結果が望んだものになるのか、それは本人の素材次第だ。きっとその女友達は菜月が羨ましいのだと思う。私と同じで素材に恵まれていないから、ついそんな言葉を浴びせてしまったのだろう。
「男も男だよ。なんで努力に気づかないのかな。気づくのは女の子ばっかりだし」
 菜月はすっかり酔っていた。私は、そうだね、と自然に優しい声が出ていた。

 菜月とは駅の改札で別れて、私は電車に乗った。人と酒気で溢れた車内は出勤のときとは違った息苦しさがあった。私は少しでも人がいないところを求めてドアの近くに立った。窓ガラスに映る私の奥で、満月がぷっかりと浮かんでいた。今夜も熱帯夜だというのに、月も星も涼しそうに輝いている。夏が来て、我が物顔の太陽とは大違いだ。
 右手が小刻みに震えて、私は携帯電話を見た。彼からのメールだった。今日は仕事終わりに映画を観たらしい。それも彼の好きな女優が出ている作品で、その女優のいつの表情が可愛かったとか、あの場面の演技が良かったとか、彼の興奮した声が聞こえてきそうな内容だった。我ながら他愛のない会話をだらだら続けていると思う。私は好意を伝えているけれど、不器用だから相手に伝わりづらいのもわかっている。でも、私としては、恋人か、友達か、すぐにでも決めてほしい。ただ、彼の返事は、いつも中途半端だ。

 私は返事を送って、再び満月を見た。男は努力に気づかない。菜月の言うとおりだ。彼が私の努力に気づく日は来ないと思う。来ても、そのときに彼の隣にいるのは私じゃない。これまでもそうだった。私は相手が変わっても、同じ熱量で、同じ努力をしている。それは菜月も同じだ。
 窓ガラスに映る私がうっすらと笑った。菜月を初めて身近に思えたことが、少しくすぐったかった。


 今度の男は真面目系か。コーヒーを飲みながら、私は菜月の顔を見た。自然な太い眉、すっぴんのような薄い化粧、黒くて艶のあるロングヘア。どんな化粧でも似合うけれど、私は今の菜月が好きだ。素の菜月がいるみたいで、ほっとする。
 今日は会社の近くにあるレストランにいた。昼間は喫茶店、夜はお酒と軽食を楽しめる、今の会社に勤めてから私が見つけたお店だ。菜月とは何度か来ているけれど、夜にコーヒーしか頼まなかったのは今日が初めてだった。
「陽奈って、恋人つくらないの?」
 つくれないの、と私は答えた。菜月が不思議そうに首をかしげてコーヒーを飲んだ。
「欲しくない? 寂しくない?」 
 まあね、と言って、私は腕時計を見た。午後六時過ぎ。そろそろいい時間だ。私は菜月のコーヒーカップが空いたのを確認して、そろそろ出よっか、と言った。
「用事って何なの?」
 秘密、と答えながら、私はバッグとコートを持った。
「誰かと会うの?」
 秘密、と私が答えると、菜月がにやりと笑って席を立った。

 部屋に戻って、私はベッドに腰掛けた。ふっと息をついて壁にもたれると、向かいの窓から建物の影とその間から夜空が見えた。今日はあまり月が見えない。天気予報では晴れると言っていたのに、夕方に通り雨があって、今は切れ切れの雲が夜空を流れていた。秋の空は気まぐれだ。念のため、折り畳み傘を持っていこう。
 私はメールを確認してシャワーを浴びた。今日初めて彼がこの部屋に来る。予定ではこの時間に待ち合わせをしていたけれど、仕事で一時間ほど遅れるとメールが入って時間に余裕ができてしまった。掃除は昨日のうちに終わらせていた。あとは化粧をして、服を着替えて、彼の連絡を待って迎えに行くだけだ。

 私はローテーブルの前に座って鏡を見た。すっぴんの私は、かなり地味だ。目が小さい。肌と唇の色が悪い。なにより顔立ちに華がない。化粧が下手だから、素材が悪いから、と開き直って適当に扱うから、この歳になっても恋人ができないのかもしれない。
 顔を見るのが嫌になって、私は床の上で仰向けになった。真上には白々とした明かりを放つ照明があった。丸い形が、四日前の満月にも見えるし、昼間の太陽にも見える。今夜の月は欠けていた。月は形を変えるのに、太陽はずっと丸い。いや、月だってずっと丸い。光と影の具合で表情が変わるだけだ。たしか理科の授業で教わった気がする。太陽との関係で、どうたらこうたら、と。

 思わず、にやりと笑った。菜月は月だ。そう思った。男によって、自分をころころ変えるから。そう考えると、菜月が月で、男が太陽か。ふいに彼の顔が過ぎって、にやりと笑った唇からふっと力が抜けた。綺麗になった部屋、整理された棚、体から香るボディーソープ、ローテーブルにある鏡。
 私も、月だ。
 今になって彼の影響力の大きさを実感した。これだけ私に影響を与えているのに、私は彼に少しも影響を与えていない。それが悔しかった。彼は私をぼーっと見るだけで、私に向ける熱量が常に一定だ。私は言葉を変えて、仕草を変えて、こんなにも好意を伝えているのに。

 私は、ふっと息をついた。結局、私は彼しか見ていない。そう思った。彼が私の努力に気づかないのなら、気づくまで努力するだけだ。もう中途半端な答えはいらない。あの間抜けな太陽が、ちゃんと熱量を上げて、私だけを照らすようになるまで、私もとことんやってやる。

 私は体を起こして棚から化粧道具を出した。鏡に映る自分と向き合って、よしっ、と気合を入れる。彼の好きなあの女優をイメージして化粧をしようと決めた。〈了〉

いいなと思ったら応援しよう!

よしとき
いただいたサポートは、ひとりパリピ代として使わせていただき、記事を書かせていただきますm(__)m