Yirumaを聴きながら思う、記憶に残る音という灯り
実はというか、別段書いておくことのほどでもないのだけれど。
この投稿用の文章を公開することを前提に、10月の終わりくらいに書いていたのだけれど、公開するのにどこか引っかかりがあったのと、文字が少し気に入らないところがあってそのまま放置していた。
でもやっぱり記録用としてもポストしておこうと思って、少し手を入れて書き直してみたので、よければ。
ただ一言この投稿で伝えたいのは、
どうか悔いのないように健やかに暮らしてほしい、ということ。
2021年の10月は目まぐるしい時間の流れを感じた。
どこか歩みを止めた身体の中の時間と、無慈悲に淡々と過ぎ去っていく物理的な時間の狭間に落ちたような、そんな月だった。
それはまるで、1年のような時間を経て体験するような、もしかしたらそう何度も経験するようなことではないことが圧縮されたようなもの。
気持ちの整理がついていないけれど、ただ粛々と時間は流れていくのだなと思っている中、ランダム再生していた音楽が流れてきたのをきっかけに少し文章を書いてみようかな…。
なんて思い、パソコンをパチパチしている。
話したくても話せないことは星の数ほどあるけれど…、
(わりにこの1年間の中でも色々あった…)
ここ最近の1つの出来事を挙げるとすれば、身の回りにいる人たちが少しいなくなってしまった。
それは生命の灯火が消えてしまった、ということなのだけれど、なんでこんなに立て続けに続くように…と思っている。
昔から、というか小さい頃から割と人が亡くなってお葬式に行く場面も多かったし、実際に目の前で亡くなるのを見た場面も多かった、と思う。
人と比べるものでも、その体験を話すこともないからわからないけれど。
すごくお世話になった人も、それほど親しくはない人もいるけれど、お葬式に行くという行為は結構エネルギーを使うなと思う。
人の最後の場面に立ち会う、というのは何かしらの覚悟と決意と、自分が生きている、生きていくということに否が応でも向き合わされる。
2020年の頃は行きたくてもいけない、みたいなことがあって何だかなぁと、やるせない行き場のない気持ちがあったから、その辺は少しずつ戻りつつある日々を感じている。
他の土地や場所によっては違うのかもしれないけれど、だいたいの場合、黒色の服を纏って受付に行くと静かに音楽が流れていたりする。
BGMとして流しているのかもしれないし、ご家族の思い出として流しているのかもしれない。
この前は知ったピアノの曲が流れてきて、あぁこんな曲も流すようになったんだ、変わったなぁ。
なんて思っていた。
その音楽は世界的には広く知れ渡っているけれど、国内ではあまり聞くことがないから珍しいなと思った。
その時は、そんな風にしか思わなかったけれど、今ランダム再生していた音楽からあの時の曲が流れてきて、ふと考えている。
そういえば、音に残る記憶は多いかもな、と。
懐かしい思い出の曲
辛い時に励まされていた曲
嬉しい時や悲しい時、辛い時なんかの特定の状況に聴く曲
ずっとお気に入りで聴いている曲
あるいは、聞けなくなってしまった音楽
何年も前に、小学校からの大切な仲良しの友だちがいなくなってしまった時に、お別れの時に流れていた音楽は聞けなくなってしまった。
すごくすごく好きなアーティストで、何度も助けられてきた曲がたくさんあったけれど、どうしても聞けなくなってしまって、あれからずっと聞けていない。
なぜだかわからないけれど、どこかぽっかりと空いてしまった胸の空白の部分が、そこにあった音の思い出や記憶がなくなってしまったようにも思う。
大切だからこそ、聴くことができない音たち。
ごく最近、一時期お仕事でとても支えてくれていた人がいなくなった時は、いつものように流れていた音楽が頭をよぎって、たくさんの経験と多くの人と出会えた、かけがえのない大切なかけがえのない時間のことをぼーっと思い出していた。
大切な時の思い出の音楽というのは、その時の感じた思い出をぎゅっと詰め込んで蓋をしたような、宝箱のようなパンドラの箱のようなものになるのだと思う。
というよりも、そう感じている。
その思い出の蓋を開けると、その時の景色や匂い、肌で感じていた感覚なんかを一瞬で思い出させてくれる。
良くも悪くも。
そしてそんな音楽が少しずつ、確かに自分の中に増えていくのかもしれないと思う。
当たり前のようだけれど、生命はいつか旅立ってしまうし、自分もその流れの中にいる。そして、また新しい生命へとつながっていく。
時代が変われば流行も、聴かれる音楽も変わっていくけれど…
大切な人から繋がったなにかを、次の世代へ渡すことができたら。
と、漠然と思う。