Vtuberはいつ死ぬのか。バーチャル蠱毒がもたらした死の概念と、九条林檎No.5はまだ生きているという話。

少し前に行われた電子妖精プロジェクトというバーチャルキャラクター公開オーディションについて、興味深い記事を読んだ。

より私の興味を引いたのは2つ目、「電子妖精はいつ死んだのか」という問いかけである。この問いについて考えるうち、Vtuber(バーチャルキャラクター)の死という概念についての整理がついたのでここに記しつつ、ついでに先日デビュー1周年を迎えた九条林檎の話をしたい。


バーチャル蠱毒がもたらした「バーチャルの死」という現象

まずこの記事を読んでいるであろう人、つまりバーチャル蠱毒やそれに続くバーチャルの公開オーディションに興味を持って追ってきた人、にとっては当たり前になっているが、一般的にはそう認識されていないことについて一度指摘しておきたい。

Vtuberは普通死なない。

一般的なVtuber視聴者にとっては、Vtuberは引退するか活動休止するかするもので、死ぬものではない。インターネットで活動することを今後一切やめるということはインターネット上における実質的な死だ、という指摘がありうるにしても、普通はそのような表現は使わない。単に引退か活動休止で十分である。彼らはVtuberとして活動することをやめるだけであり、もしかしたらどこかでまた会えるかもしれないのだ。活動再開の可能性だってゼロではない。そこに死という言葉を使うのは表現としていささか過激だ。

ところがバーチャル蠱毒においては事情が違った。選ばれなかった彼女たちは、そのままの彼女たちという形で再び会える可能性は限りなくゼロだった。九条林檎No.Xは、九条林檎が「決まった」あとは九条林檎を名乗ることはできない。それどころか、バーチャル蠱毒の最初の前提では、選ばれた者を知るすべも、選ばれなかった者を追うすべもないものと考えられていた。選ばれなかった、生き残れなかった九条林檎No.Xはまさしく消滅する、すなわち死ぬのだ、と思われたのだ。

そして後に続く公開バーチャルオーディションでも、同じ姿で同じ名前を今後二度と名乗ることができないという意味で、選ばれないということは死に喩えられた。冒頭の「電子妖精はいつ死んだのか」における死もその文脈を受けてのものだ。公開バーチャルオーディションという文脈においては、Vtuberの死という現象が他と比べて一般的なものになっているように思う。あるいは、オーディション敗退者が「転生」することで、逆に死というものへ意識が向くのかもしれない。これも一つのバーチャル蠱毒が生み出したものだろう。

次項ではこの意味におけるVtuberの死について考え、「電子妖精はいつ死んだのか」に対する私の答えを述べよう。


電子妖精はいつ死んだのか

私が思うに、Vtuberの死は大きく3層に分けられる。器の死人格の死、そして魂の死である。

まず器の死について。これはオーディションの参加者が、その言動やニックネームなど、精神の同一性を維持しながらも、もともと名乗っていた名前や姿、設定を持つことができなくなることを指す。電子妖精で言うと、「眠れるプログラム」に移行したタイミングがこれに当たるだろう。ただ、これを死として良いかは正直微妙であると思う。というのも、一般的に名前や姿は個人の重要な要素ではあるが、それが全てではないと考える人が多いだろうからだ。分かりやすく言うと、名前を変え、姿を変えて裏家業から足を洗い田舎で平和に暮らす人間を、死んだと呼ぶかということだ。いかにも「殺し屋としてのXXはもう死んだんだ」と言いそうであるが、これが実際の死ではなく比喩的なものであることに異論は多くなかろう。

この意味で、九条林檎No.5は死んでいない、ということも同時に言える。確かに九条林檎No.5はNo.5を名乗るのを辞めた。そして1/12であるという、九条林檎No.5の外形に大きな影響を与えていた要素が失われた。しかしそれをもって九条林檎No.5が死んだというのは、やはり比喩の域を出ないだろう。これも典型的に言ってしまえば、「あの頃の君はもういない」だ。それを死と呼ぶことを否定はしない。重要なのは、その死は尊重されるべきあなただけの死であって、私にとっては死ではない、ということだ。

次に人格の死だ。その人としてふるまう存在がいなくなるということ。その人の記憶を、経験を、視点を、主観として語る存在の消失。バーチャルにおいては転生がその契機になることが多い。いわゆる「中の人」が、そのキャラクターを演じるのをやめ、別のキャラクターとして振る舞い始める。電子妖精の転生お披露目がなされたタイミングで、前のキャラクターの人格は死んだとする冒頭の記事はこの意味での死を指していると思われる。ここをVtuberの死と見なすのは理にかなっている。転生前と転生後が同一の存在であることをバーチャルの領域で(メタ的な語りなしで)示すことは困難だ。もちろん中の人、つまり魂が同じである以上、バーチャルの外、リアルの世界で痕跡を探せば証明は容易だろう。声紋かなにかで同一性を示してもいいが、それは現実世界の人間が声の特徴で識別可能だという、現実世界の法則に基づく話に過ぎない。バーチャルにおける魂とはまさに人間における魂のようなもので、我々人間には人間の魂が存在することを証明することができない。

最後に魂の死について。これを厳密に考えるとバーチャルに魂を見てしまう人でも納得せざるを得ない死、つまり中の人の死となる。中の人の性質が振る舞いを決定することが多いVtuberにおいて、中の人の死は最も確実にそのキャラクターを再現不能にする。これが死であることは最も了解される可能性が高いだろうが、一方でこれだけがVtuberの死であるとするのは厳密すぎる。Vtuberの死という概念が前述の公開オーディションの文脈を踏まえて定義されるものだとすると、キャラクターはキャラクターとして、その同一性の持続を不可逆的に失った時点で死ぬのであって、キャラクターの死は中の人の死を要請しない。

より広く考えるなら、中の人がもう戻ってこない、転生しないと宣言して離れる場合も、魂の死として認めてもよさそうに思う。ただし、この場合人格の死と差がほとんどなくなる。中の人がそのまま中の人としてVtuberではない別の形でアカウントを持つ場合もありえるので、意味のある定義をするなら「その人物としてのインターネット上での活動を完全に停止する」ことが条件になるだろう。

というわけで、私個人としてはVtuberの死のタイミングは人格の死のタイミングとするのが適切だと思う。冒頭の「電子妖精はいつ死んだのか」に対する回答は転生発表時、つまり冒頭の記事と同じ考えだ。

ただし、この死の基準については人それぞれで持っておけばよい話だとも思う。魂が同一である限り、その表現の形態が変われど存在は同一だ、という主張はけして不条理なものではない。文章の作者が誰であるかを全く意識しないで読むということが時に困難になるのと同じように、我々がキャラクターの魂をその奥に見てしまう時があり、その魂に惹かれることは不思議なことではないからだ。その意味で、冒頭の記事で「死んでいない」派に向けられた批判に対しては100%賛同するわけではない。彼ら死んでいない派が見ているのは残滓ではなく根底に見える共通項であって、その共通項が失われたわけではないのだ。


九条林檎は死んでいない

そもそもなぜVtuberに死という概念が必要になったかというと、同一の名称と外見を持った者が同時に存在する公開バーチャルオーディションという形式が前提にあったうえで、オーディションによって選ばれなかった者はそのままそこに存在することができず、またその存在を今後名乗ることが不可能であることが明らかだったからである。その名前はオーディションが終わるとともに他のある一人を指すものとなり、選ばれた者のみがその人物として語ることができる。ならば選ばれなかった同一の者たちは消滅するより他にないというわけだ。

結局のところ完全に消滅する必要はなく、転生という概念を得てある程度の同一性を保った上で活動する道も残されたわけだが、かといってそっくりなキャラクターですよと言ってそのまま活動を続けるのは勝ち残った者がいる以上憚られることとなり、人格の死は免れ得ぬものだった。当然、No.5以外の九条林檎No.Xもまたキャラクターとしては死んだのだ…と私も思っていた。だが、最近になってようやく気が付いたことがある。違うのだ。九条林檎は誰一人死んではいない。

九条林檎No.5が九条林檎となったとき、彼女の語る世界もまた公式となった。彼女がこのオーディションについてなんと語っていたかご存じだろうか?「複数の世界線から呼ばれた12人の九条林檎を競わせる狂気の催し」だ。そして自身が敗れたら自身の世界線、自身の魔界に帰るのだと。彼女の言に従えば、残るそれぞれの九条林檎もまた、それぞれの世界線に帰ったのではなかろうか。現に、例えば九条林檎No.9からと思われるメッセージが届いたこともある。

もちろんこのことが、何か具体的な意味を持つかというとそうではないだろう。例えば現実的にかつて九条林檎No.Xと名乗っていた者が九条林檎No.Xとして再び現れるという可能性はほとんどないだろうし、死んだのではなくそれぞれの世界に帰ったのだというのは単なる言いかえに過ぎないというのも自覚している。また九条林檎No.5が異なる世界線という言葉を使ったのも、単に状況の整合を取る説明として適切だっただけという可能性が最も高い。

ただ、それでも、九条林檎No.5が語ってきた世界観においては、11人の九条林檎には消滅ではない終わりが用意されていたということに、わずかな救いを感じるのだ。彼女の語る世界には帰ってしまった彼女たちの痕跡が残っている。九条林檎No.5が九条林檎になっても、その痕跡が消えることはない。それゆえに、九条林檎No.5もまた、その痕跡を彼女の中に残していった。だから九条林檎No.5は死んではいないと、私は改めて思うのだ。


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