[さめのうた・夜宙ルク 学パロSS] 薔薇の庭に迷い猫
雨乃(さめの)うたが「生徒会」の札を下げた教室の扉を開けた。お疲れ様です、と挨拶をして、慣れた足取りで部屋の中へと進んでいく。室内では数人の生徒が各々の作業をしている。生徒会長がいなかったので、代わりに副会長に話しかける。
「鍵、借りていきますね」
うたは「倉庫」とラベルの貼られたフックにかかっている鍵を手に取る。副会長はおう、と軽く返事をしてそれきりだ。鍵を手に入れたうたは生徒会室を後にした。
うたは生徒会の一員で、書記の役職についていた。他のメンバーは全員先輩で、うたが唯一の一年生だ。うたが在籍するRosenArk学園は、中高一貫の私立学校で、生徒会も中等部と高等部で分かれている。本来役職が付かないはずの一年生であるうたに役職が付いているのは、高等部の生徒会が人数不足だということを端的に表していた。
だからといって、極端に忙しいというわけではない。うたが今から向かっている倉庫も、掃除が必要だという話が出たので自分から手を挙げてやっているだけで、それを除けば週に1度か2度活動すれば十分だった。
倉庫は学園の敷地を少し外れたところにある。外に出ると、まだ春の残り香が感じられる暖かな陽気に包まれていた。うたが身に着けている黒のブレザーとスラックスという恰好だと、日光が当たると若干暑い。スカートで歩く女子生徒を見て、少しだけ羨ましいと思う。
雨乃うたは学籍上は女子生徒だ。しかし、短く整えられた銀雪色の髪に、ブレザーとスラックスという姿は遠目には男子生徒と見られても何らおかしくはない。すっきりとした目鼻立ちも、美少女というより美少年と言った方が似つかわしいような印象を与えている。細く華奢な体の線と男子にしては高く柔らかい声で、どちらかといえば女性だろうと判断される、といったところだ。
実際のところ、うたは自分が女性だ、と見られることを避けている節があった。とはいえ、男性として見られたいわけでもなく、今は中性と自認している。多少は思い悩んだ時期もあったが、今では一定の折り合いをつけていた。
今ではスカート姿の女子生徒を見ても涼しそうでいいな、と思うくらいだ。
とりとめのないことを考えながら校門を出て、裏手に少し歩くと目的地の倉庫がある。倉庫に行く道の先は行き止まりになっており、ほとんど人が通らない。だからその日、倉庫の前に人がいたのは大変珍しいことだった。
白いパーカーを着た青年が、ジーンズが地面に着くのもいとわずにしゃがみ込んでいる。ゆるくわずかにウェーブがかかった灰緑色の短髪が、体の動きに合わせて揺れていた。青年の目線の先には白と黒の縞模様の小さな猫が、ゆっくりと歩いている。見ていると、青年が小声で何かつぶやきだした。
「ねこちゃ~ん。おいで~」
発せられた声はまさに猫なで声といった調子で、猫好きなのがはっきりと分かる。そして意外にも声が高い。その後も何度か声をかけ、おそらく手招きしているのだろう、体を揺らしていた。
うたはしばらくそれを見たのち、本来の目的を思い出した。倉庫の前に陣取る不審者(と猫)を無視して入るのはいささか失礼だろう、と判断し、声をかける。
「あの、すみません」
「わっ!!」
青年が驚いて体を上げ、猫がそれに驚いたのか駆け足でこの場を去っていった。青年が呼吸を整えてゆっくりとこちらを向く。青年は整った顔立ちでこちらを睨んでいた。
「逃げちゃったじゃん」
うたは戸惑いながら青年を見ていた。青年はジーンズの土を払うと、再びうたに視線を合わせる。最初は青年だと思っていたその相手は、よく見ると中性的な顔立ちをしていた。髪色と同じ瞳には星のような光が浮かんでいる。滑らかな肌と線の柔らかさはどちらかというと女性的だ。そして先ほどの声の高さを合わせると、女性である可能性が高い。うたはそこまで考えると再びその人物を見る。その人物はうたを観察するように見ていた。
「で、何か用?」
その人物が急に言葉を発する。猫なで声と比べるとずいぶんと低い声だ。驚きながら、本来の用を伝える。
「いえ、その建物に用がありまして」
「ああ、そういう」
その人物が道を譲るように動いた。なかなか立ち去らないのでうたが再び視線を向けると、その人物が口を開いた。
「ねえ、君、男?女?」
少しの沈黙の後、うたが答える。
「失礼な人ですね。その質問、そっくりそのままお返ししますよ」
その返答を聞いたその人物はにやりと笑った。
「やっぱり、俺と同じだ」
じゃあね、と言い置いてその人物が立ち去っていく。残されたうたは「俺と同じ」という言葉の意味を考えていた。得体のしれない人物だ。倉庫の鍵を開けると、中には物があふれていて、あたりを見渡したうたはそれ以上考えるのを止めた。
**
うたは数日に一度、鍵を貰って倉庫に行く。倉庫の整理は急ぎではないから暇を見て行っている。うた一人では到底大きなものは運べない(なんなら小さいものも運べない)ので、初めのうちはとにかくごみに出すものとそうでないものを仕分けて印をつけていった。一通り仕分け終わると業者に頼んで廃棄をして、倉庫の中身はずいぶんと少なくなった。それでもまだ細かいものは残っており、書類などは要不要の判断を仰ぐ必要があるので整理が終わるのはもうしばらく先になりそうだった。
うたがいつものように倉庫に向かうと、以前見かけた男性とも女性とも判別しかねる人物が倉庫の前でうずくまっていた。目線の先ではこれまた以前見かけた猫が倉庫の前に置かれた背もたれのないベンチの上でまどろんでいる。ベンチはうたから見て手前側にあり、しゃがみながらじりじりと距離を詰めるその人物の顔をしっかりと見ることができた。目つきは真剣そのものだが笑みがこぼれるのを抑えきれていない。おそらく猫から見たら不審者そのものだろう、と失礼なことをうたは考える。
一瞬の逡巡ののち、遠慮をする理由もないと考えて、うたは猫を見る人物の視界に入るようにゆっくりと近づいた。その人物はうたに気づくとびくりと体を動かしたが、今度は叫ぶことはなかった。しかしその動きに気づいたのか、それともうたの気配が気になったのか、猫は顔を上げてあたりを見回すと、さっと走り去ってしまった。猫が去った倉庫前で、うたは気まずい気持ちになる。
「ええと、ごめんなさい…?」
その人物はがっかりしたような様子で立ち上がると、膝についた砂を払った。
「いや、こればっかりは仕方ないよ。ねこちゃんは気まぐれだから。またあったね、このあいだの優等生くん」
逃げられたことは気にしていない、と示すように軽い調子の返事が返ってくる。うたはその返事にひとまず安心した。
「猫がお好きなんですか?」
「んー、まあ、見ての通り?」
実質的に肯定の返事が返ってくる。微妙な間が流れ、今度はその人物が口を開いた。
「君はここで活動してる人?」
「いえ、ここには…掃除をしにきてます」
「へー。部活のお仕事かなんか?大変だね」
自分で聞いた割に興味の薄そうな相手に、うたは戸惑いの目を向ける。
「ここあのねこちゃんのお気に入りの場所みたいなんだよね」
「はあ」
「いや、さすがに他人の部室の前にちょくちょく不審者が出たら怪しまれるでしょ」
目の前のどちらかというと不審な人物に、うたは興味を抱いていた。整った見た目で一見して魅力的な人物である、というのもあったが、一番はやはりその人物が自分と「同じ」だと言ったことだ。その指摘はおそらく正しい。
「この建物は倉庫なので、普段は使ってませんよ。ボクくらいしか来ないので、猫を愛でるくらいはかまわないかと思います」
「ほんと?よかったー」
心底嬉しそうな言い方に、うたの頬もつられて緩みそうだ。
「じゃあ、仕事の邪魔はあんまりしたくないし、今日は退散するね。今度またゆっくり話そう」
ナンパでもされているのか、うたは一瞬判断に迷う。その迷いを見抜いたのか、その人物が続けて口を開く。
「どっちつかず同士、せっかくだから仲良くしたいな、って思っただけだよ。ま、俺は多分また来るし、その時にいて、気が向いたらでいいよ」
じゃあね、とうたに背を向けて歩きながらひらひらと手を振るその人物を、うたは見えなくなるまで目で追っていた。
**
いると思った。うたが生徒会の倉庫前に着いたときに真っ先に思ったことだ。夏の始まりを感じさせるような日々の中で、今日は日差しも柔らかく心地のよい気温を保っていた。以前の邂逅からまた日が経ち、うたが行っている掃除も完了に向けてこまごまとした作業を残すのみとなっている。この日向ぼっこ日和の午後、思った通りあの猫はここのベンチで暖かな日の光を浴びていた。予想していなかったのは、例の人物がその猫のすぐ隣に腰かけているということだ。
猫の隣の人物がゆっくりと猫に手を伸ばしている。真面目な顔をしていれば理知的な印象さえ与えられそうな端正な顔立ちが、今は上がりっぱなしの口角と下がった目尻で柔和さを伝えるものになっていた。恐る恐る、と伸ばされた手が猫の背に触れる。そのまま2、3度撫でつけると、はああ、と感嘆の息を吐いた。
「っくしゅ!」
猫を撫でていた人物が盛大にくしゃみをする。猫はその声に驚きベンチの上から駆け降りるとどこかへ逃げて行ってしまった。くしゃみをした人物の顔はいつの間にか涙と鼻水にまみれていた。その後も繰り返しくしゃみをし、流れる鼻水を何とかしようとぬぐいながらポケットをまさぐっている。うたは見かねて持っていたティッシュを差し出した。
「よかったら、どうぞ」
「いやー、ありがとう。助かった」
時折小さくくしゃみをしているが、とりあえず顔面の洪水は収まったようだ。遠慮がちに使うものだから途中で全部使っていいと伝えると、本当に全部使い切りそうな勢いで使ってしまった。
「優等生くんにみっともない顔見せちゃったなあ」
顔がぐしゃぐしゃでも何となく様になるのは線のはっきりした美形の特権だ、とうたは思う。自分の顔は線が細いからおそらくこうはいかないだろうな、などとつい考えてしまう。
「大丈夫ですか?」
「猫アレルギーなんだよね」
「でも、猫はお好きなんですね」
「こうなる可能性も分かってたんだけど、屋外だったら行けるかなーと思ってさ。結局駄目だったけど一瞬触れて大満足だよ。ふわふわだった…」
そう幸せそうに語ると、そのあとすぐにくしゃみをする。
「そこまでして触りたかったんですか」
「優等生くんは猫嫌い?」
尋ねると逆に聞き返される。うたは不満そうに応える。
「その優等生くん、ってやめてくれませんか」
目の前の人物は目を丸くする。
「あはは、ごめんごめん。でも、君口調もすごい丁寧だし、真面目そうだなって思って」
「あなたが砕けすぎてるんですよ」
うたが呆れ声交じりに返す。
「まあ、同じ高校生同士なら大丈夫かなって。薔薇高の制服いいよね」
薔薇高、とはRosenArk学園の略称のようなものだ。うたがその回答に驚く。
「高校生だったんですか。もっと年上だと思ってました」
「まだ敬語継続ってことは1年かな。せっかくだから名前、教えてよ」
うたは少しだけ逡巡してから答える。
「雨乃うた、1年生です。あなたは?」
「さめの…うた…さめ…さめくんでいいか。俺は夜宙(よぞら)ルク。2年生だけどルクでいいよ。敬語もいらない。どっちつかず同士、なかよくしようよ」
ルクが右手を差し出す。急に敬語がいらないといわれても若干の抵抗があった。
「あ、やっぱり今は握手は無し」
そう言ってルクが手を引っ込めた。その様子を見てうたは気を遣うのが急に馬鹿らしくなる。
「じゃあ敬語なしで。ルク、よろしくね」
「よろしくね、さめくん」
ずっと立ちっぱなしのうたを気にして、ルクがベンチに座るように促し、うたはそれに従ってルクの隣に腰を下ろした。猫がまどろんでいただけあって快適な日差しがうたの体を温める。
「で、さめくんはなんの部活でここにきてるの?」
「生徒会だよ。役職は書記」
「へー、やっぱり優等生じゃん」
うたが呆れ顔で軽くにらむと、ごめんごめんと軽く謝る。最初のとっつきにくい印象とは大違いだ。
「で、なんで生徒会の人がこんなところに?」
「この建物、倉庫なんだけど、その掃除をね」
「へー。生徒会って大変なんだね。下っ端だからってこき使われてない?」
ルクの口調にからかいの色が浮かんでいる。それでも、うたにとって悪い気はしなかった。
「一応ボクは役職持ちなんだけど。まあ、この仕事は交換条件で受けたものだから、別に損してるわけじゃないよ」
「ふーん。そういうもん?」
「そういうルクは何してるの?部活」
「なんもしてない」
うたが少し楽しそうに笑う。
「だよね、じゃなかったらこんな時間にここで猫追っかけてたりしないだろうし」
「さめくんって結構辛辣だね」
うたにとってはさっきの意趣返しのようなものだが、こうして軽口を言い合うのは心地よかった。
「ルクの方こそ口気を付けた方がいいよ。真面目にしてると見た目怖いし」
「え、俺怖いかな…」
「まあ猫の前では形無しのようだけど」
ルクが顔をしかめる。その様子がおかしくてうたが笑い始めると、ルクもつられて笑顔になる。
「そういえば今日は倉庫の掃除はいいの?」
「もうあんまり仕事は残ってないけど、確かにそろそろ始めないといけないかも。良かったら手伝ってく?」
うたが軽い調子で尋ねる。
「今日はパス。また今度ゆっくり話したいね」
ルクがベンチから立ち上がり、うたの方を振り向く。
「連絡先教えてよ」
「ナンパだ」
うたは軽口を返すと立ち上がる。取り出したスマホで連絡先を交換し、ルクに別れを告げる。うたは倉庫の扉を開けると、ずいぶんと物が少なくなった室内を見渡して、いつものように掃除を始めた。
**
まだ夏が始まったばかりだというのに、真夏並みの日差しが肌を焼く。蒸し暑さはないのが救いではあるが、少し日に当たると汗がにじみそうだ。衣替えをしていなかったらおそらくうたの体力は持たなかっただろう。うたは日光をかいくぐりながら、最後の仕事をしに倉庫に向かっていた。倉庫が視界に入るとともに、もはや見慣れた髪色の人影が同時に目に入る。
「あ、ルク」
「さめくんじゃん」
ルクの隣、と言うには少しスペースが空いているが、ベンチの端と端という距離感で猫とルクが見つめあっている。今日の猫は平然としており、不審者に見つめられることにも耐性がついてきたのだろう。
「さめくん今日は時間ある?」
「ないことはないけど、外で話すのはきついな」
確かにね、とルクが答える。ルクの額には汗がにじんでいる。
「そこでよければ涼んでく?多少マシだと思うけど」
うたが倉庫に目を向けながら尋ねる。ルクが猫に目をやって、少しだけ考える。
「じゃあ、お邪魔しようかな」
倉庫にはほとんどの物がなかった。隅に机と椅子が雑然と並んでいる。日光がない分外より幾分過ごしやすい。隅の机を指さしてうたが言う。
「適当にその辺の椅子使って」
うたは書類が積まれた一角に向かい、書類を一束持ち上げると、隅の机の一つに置くと椅子を引いてそこに座った。
「まだ仕事あるの?」
「今日で最後。この書類を分類し終わったら倉庫の片づけは終わり」
「じゃあさめくんとここで会うのも最後なんだねー」
気の抜けたルクの言葉を聞き流し、うたは書類をめくり始める。
「つれないなー。俺とお話ししようよ」
ルクが口を尖らせる。
「連絡くれればいいのに」
目線は書類に落としながらうたが答える。そのそっけない返事にルクは不満そうにむー、と呟く。
「そういえば」
うたが書類の束の半分を片付けたタイミングで、書類を置いてルクを見る。
「最初に会ったとき、『俺と同じ』って言ってたけど、あれ何だったの?」
「そんなこと言ったっけ?」
「覚えてないの?君男?女?とか失礼なことを聞いてきたじゃん」
「ああ」
ようやくルクは思い出したようだ。
「ほら、俺ら、いわゆる半端者というか。一応俺は書類上女子ってことになってるけど、俺ってこんなんじゃん?女子、って感じではないかな、というか。でもまあ男子でもない、だから半端者。だから男?女?って聞かれること結構あるんだけど、さめくんもなんか同じじゃないかなって思ったんだよね」
やっぱりそういうことか、と腑に落ちる。
「まあ、当たりだね。ボクは中性って自称してるけど。初対面に聞くのはどうかとは思うけどね」
「中性、いいね。俺もそれ使おうかな」
ルクが後半を無視して答える。うたが何も言わなかったのでルクがそのまま話を続けた。
「こういう感じだと服装とか困るよね。さめくんの薔薇高は女子がスラックス選べていいよねー」
「よく知ってるね。そういえばルクは学校どこなの?」
ルクが答えたのは公立の、いわゆる進学校と呼ばれるところだ。RosenArk学園とは学力的には大きな差はないが、私立の特徴なのかRosenArk学園の方が学力には幅があった。
「さめくんも学校制服で選んだでしょ。俺もスカートやだなーってなっていろいろ調べたんだけど、私服おっけーのうちの学校か薔薇高かで悩んで、学費的にこっちにしたんだよね」
「それもなくはないけど…RosenArkは学費免除が受けられるのと、寮に住めるからね。まともに私立に入る金銭的余裕はないかな」
「へー、さめくんも苦労してるんだ」
話しながらも、うたは書類を分別しては、積まれた書類を持ってきて目を通す、という作業を繰り返していた。ルクは机に座って足をぶらぶらさせながらうたの様子を見ている。
「あ、そうださめくん。こんど一緒に買い物行こうよ」
「買い物?」
唐突な遊びの誘いに、驚きながらも答える。
「そ。普段人となかなか服買いに行かなくない?」
「まあ、そうかも」
周りの女子生徒とは選ぶ服の系統が違うことが多く、男子生徒を服選びに誘うのは人を選ぶ。そんな理由から、うたは一人で服を買いに行くことも多かった。そしてそれはルクも同じだったようだ。
「じゃあ、日程とか決めよう。予定見て連絡するね」
うたが告げる。了解、とルクが答えた。
「よし、これで終わり!」
いつの間にか積まれていた書類は二つの山に整理されていた。少ない方の山をうたが手に取る。
「じゃあ、ここは閉めるから、今日はこれで」
「さめくんとも会えなくなるね」
「普通に遊べばいいでしょ」
うたがぴしゃりと告げる。
「遊んでくれるんだ」
「調子乗らない」
ルクを追い出して倉庫の鍵を閉める。猫はもうベンチにはいなかった。
***
待ち合わせの日はあいにくの雨だった。雨はそれほど強くはないが、鬱陶しいことに変わりはない。夜宙ルクは駅前で友人が来るのを待っていた。
待ち合わせ相手のさめのうたは最近知り合った友人で、二人で出かけるのはこれが初めてだ。人と仲良くなるのはけして苦手ではなかったが、たまたま路上で数回会っただけの人間と友達になるのは珍しいことだった。はじめに相手に興味をもったのはルクの方だったし、仲良くなりたいと声をかけたのもルクの方だ。仲間意識があったというのも嘘ではないが、一番はやはり少女のようでいて少年のようでもある彼女の雰囲気が気になったのだろう、とぼんやり考えていた。
まばらに降る雨を見つめてぼうっとしていると、傘を差したうたがこちらに歩いてくるのが見えた。チャイナ風味の上着にゆったりとした黒のワイドパンツという恰好だ。制服しか見たことのないうたの私服は少し新鮮だった。ルク自身は相変わらずいつもと変わらないような恰好をしている。
「やあ、ルク。待たせたかな」
うたが近づいてきて、傘を閉じながら声をかける。
「今来たところだよ」
「ベタだなあ」
うたがルクに期待のこもったまなざしを向ける。
「それで、今日はどこに行くの?」
ルクとうたは駅前の店を中心に周り始める。初めのほうはルクが行き先を提示していたが、やがてうたが気ままに店に入ることが多くなっていた。お互いの目的のものを買い終わると、普段はいかないような店にも行ってみる。ガーリーなスカートにフリルのついたブラウスを手に取ってルクが言う。
「さめくんこれ着てみなよ!」
嫌がられるかと思ったが、うたは意外にも素直に応じてくれた。
「どう?まあボクはかわいい衣装も似合うんだよね。普段は着ないけど」
「すごい似合うじゃん。普段も着ればいいのに」
ルクが素直な感想を述べる。女子の衣装を着たうたはまごうことなき美少女だった。
「フリルとかかわいい衣装は好きなんだけど、自分っぽいかっていうとね。自分じゃない誰かとして着るのは好き」
「なるほどね」
「それよりルクも着てみなよ」
「俺は似合わないからいいよ」
難色を示すルクを見て、今度はメンズコーナーからカジュアルなジャケットにスーツパンツの組み合わせをうたが持ってくる。仕方なくルクが着ると、うたが嬉しそうに感想を言う。
「似合う!ホストみたい!」
「…それ褒めてる?」
「すごいチャラそうだよ!」
「褒めてないよねそれ」
ルクがうたを睨みつける。うたはそれを意に介さずに目を輝かせてルクを見ていた。楽しい時間はあっという間に過ぎていく。
気が付くと雨は止み、日が暮れようとしていた。そろそろ解散するべき時間だろう。ルクはそう考えてうたに解散を促す。
「さめくん、そろそろ暗くなってきたし帰ろうか」
対するうたはまだまだ物足りないという様子だ。
「えー、このあとご飯でも食べに行こうよ」
ルクが諫めるように答える。
「俺はうちでご飯用意してもらってるし、何より帰りが遅くなると危ないでしょ」
「心配してくれてるの?」
うたが首をかしげる。この人はもう少し自分の魅力を自覚した方がいい、と思うが、調子に乗るのは明白だったので口には出さなかった。
「さめくんって意外と不良だよね」
「ルクこそ、意外と真面目だよね。ボクは元々真面目で売ってたわけじゃないから」
「俺も元々不良で売ってたわけじゃないからね?」
軽口を叩きながらも、解散する方向に向かう。
「はい、じゃあ解散」
「危ないって思うなら送ってくれてもいいんじゃない?」
うたが挑発するように答える。
「それは大丈夫でしょ。さめくんの家ってここから遠いの?」
「いや、結構すぐだよ。15分くらい」
「へー。俺も歩いてそれくらいだから結構近いかもね」
「なら今度うちに遊びに来なよ」
意外な申し出にルクが少し驚く。
「じゃあ今度お邪魔しようかな」
いつのまにか二人は集合場所に戻ってきていた。二人が改めて向かい合う。
「今日は楽しかったよ、さめくん。付き合ってくれてありがとう」
「こちらこそ、久しぶりに買い物して楽しかった」
少し真面目な雰囲気になんだかおかしくなってしまう。
「じゃあまた。気を付けて」
「ルクもね。それじゃ」
二人が別々の方向に歩き始める。ルクが一度だけうたの方向を振り返ると、うたの後姿が夕方の街並みに消えていくのが見えた。
**
肌を焼くような夏の日差しが降り注ぐ午後。夜宙ルクはなるべく日光を避けながらRosenArk学園に向かっていた。猫との逢瀬で通いなれた道だが、今日会いに行くのはさめのうただ。あれから何度か遊ぶ機会もあり、いまではすっかりと仲良くなり頻繁に連絡を取るようになった。ルクの学校が創立記念日で休みだということもあり、今日はRosenArk学園でうたと合流し、そのままうたの家に行く予定だ。意外と早く着いてしまったルクは、さすがに校門の前で待つ気にもなれず、別の出入り口を探して敷地の周囲を回ってみることにした。校門に向かって右手には、うたと出会った倉庫がある。ルクは行ったことのない左手方向に足を向けた。
丁度放課後に差し掛かった時間なのか、ぱらぱらと生徒の話し声が聞こえてくる。少し歩くと正門とは別の小さな出入口があった。そこから敷地内を眺めていると、見慣れた目立つ白銀の髪を見つけた。うたは友人と何かを話しながら歩いている。細かな表情や会話まではここから読み取ることはできなかった。
そこに別の女子生徒が駆け寄ってくる。深い藍色の長髪の少女は、遠くから見ても一目で分かるほどの美少女だ。その少女は二言三言うたと話すと、そのままうたの腕に抱き着いた。うたは少し戸惑いながらも、満更ではない顔で少女を受け止めた。うたと少女はそのまま腕を組んで歩いている。
(さめくんはああいう女の子が好みなのかな)
うたが楽しそうに笑っている。うたと過ごしていて分かったのは、うたは意外とよく笑うということだ。ルクもついついつられて笑ってしまうことが多い。そうこうしているうちに、よほど面白かったのかうたは声を上げて笑い始めた。隣の少女の髪が揺れる。
(楽しそうだ)
いつも見ているはずのうたの笑顔が眩しく見える。それ以上見ていたくなくて、踵を返して出入り口から離れると、近くにあったベンチに腰掛けた。ベンチは木陰だったが、太陽は容赦なく辺りの温度をあげているようだった。
「…暑いな」
腰かけて直ぐにうたから着信があった。一瞬だけ逡巡して電話に出る。
『あ、ルク!今どこにいる?』
「ああ、もう着いたよ。校門に向かって左側の入り口のベンチのところにいる」
『わかった、じゃあすぐ行くね』
『お、なんださめ、女か?』
突然うたとは別の声が聞こえた。おそらくは先ほどの少女だろうか。
『ちょっとメア!ごめん、友達が』
『我とさめはただの友達だったのか?』
少し距離があるが、少女の声はしっかりと聞こえる。甘えたようないたずらっぽい声色で、見ず知らずの自分でも絆されそうだ。
「仲いいんだね。じゃあ待ってるから」
うたの返事を聞かずに電話を切る。暑さで乾いた喉を潤すため、ルクは飲み物を買うために立ち上がった。
うたと合流したルクはそのままうたの家に向かった。学校から歩いて15分ほどで、ルクの家からでも歩いて20分かそこらで着く距離だ。学校の寮と聞いていたが、何ら変哲のないアパートに見える。
「学校の経営してる会社が持ってる賃貸で、学生が多いけど普通の人にも貸してるんだ」
と、部屋に行く途中にうたが解説してくれた。うたの部屋につくとうたが鍵を開ける。
「上がって。適当にくつろいでくれていいよ」
うたの部屋は驚くほどものがなかった。学生用の賃貸にもかかわらず2部屋あるが、その分一部屋はあまり広くない。しかしそれ以上にものがなく、実際よりも広く見える。目立つものはベッドとPCがある机、そして棚が一つくらいだ。あとは床に段ボールがいくつかおいてあり、雑多なものが入っている。迷った挙句、うたに声をかける。
「ベッド座っていい?」
いいよ、とキッチンに立つうたが答える。
「紅茶でいい?」
「俺コーヒー派なんだけど」
言い返しはしたが家主が出してくれるものに文句を言うつもりはない。しかしうたは配慮してくれたのか麦茶を持ってきた。うたも自分の麦茶を持ってベッドに腰かける。座ったのはルクすぐ隣で、少し腕を横に動かすと体にぶつかる距離だ。ルクは無意識に上半身の重心を離す。うたの距離感の近さには毎度驚かされる。
「ごめん、近かった?」
距離感近いってよく言われる、と言いながらうたがほんの少し距離を取る。ルクの感覚からすればそれでもまだ近すぎるといっていい距離だ。しかし別に不快なわけではなかったのでそのままにしておく。距離感、という言葉でルクが先ほどの出来事を思い出した。
「さめくんってもしかして恋人いたりする?」
「いないよ。なんで?」
麦茶を飲みながらうたが答える。
「なんかさっき学校ですごいかわいい子とくっついてたから」
ルクも麦茶に口をつける。よく冷えていて気持ちがいい。少しだけ考えてからうたが口を開く。
「ああ、メアか。同好会の先輩。確かに距離はちょっと近いけどね」
「同好会?」
うたが生徒会に入っているのは知っていたが、同好会というのは初めて聞いた。うたがルクの視線から疑問を正しく読み取る。
「説明が難しいんだけど…ルクって結構オタクだよね?」
「そこそこね。俺らみたいな性別曖昧族はオタクになることを運命づけられてるから」
「なにそれ」
うたが怪訝な顔をする。
「自分の性別に違和感があるとさ、何でもいいから物語を読み漁って、自分がどうなりたいか探したりするわけじゃん。その過程でみんな何かしらの物語に囚われるよね。救われる人も多いだろうし」
「なるほどね」
ルクの説明を聞いたうたが分かったような分からないようなという顔でうなずく。
「それで、同好会の話は?」
「聞いたことくらいはあるかな。バーチャル同好会っていうんだけど」
うたが同好会の活動を説明し始める。
「さめくん楽しそうだね」
「なんていうかね、バーチャル空間だとボクが一番ボクらしくいられる気がするんだ。年齢とか、性別とか関係なしに。どんな姿にもなれるし」
みんなもやさしいしね、とうたが付け加える。うたの話は同好会の活動から同好会のメンバーへと移っていく。
「さめくん、先輩のこと本当に好きなんだね」
「すごく尊敬してる」
好きだよ、と返ってこないことになぜか少しほっとする。それからようやく、自分の感情が嫉妬だと気づいた。そうして気づけば口から疑問がこぼれていた。
「…さめくんの恋愛対象って男?女?」
**
不用意なことを聞いただろうか。そう思ったのも束の間、うたが口を開く。
「両方、かな」
ルクが無言で続きを促す。
「男の子とも女の子とも付き合ったことあるよ」
「へー。経験豊富じゃん」
言葉に棘が無かったか、言った後で慌てて確かめる。発言は迂闊だったが、ルクの内心のざわつきはかろうじて隠すことができていたらしい。
「そういうルクはどうなの」
「俺は…どっちだろう」
ルクが言いよどむ。
「今まで付き合った人とかは?」
「…さめくんには言いたくないな」
「もしかして聞いちゃいけなかった?」
うたがルクの顔を下から覗き込む。
「そういうわけじゃないけど」
ふーん、と言いながらうたが頭をわずかにかしげる。
「さめくんは」
口の渇きを感じて麦茶に口をつける。うたがつられて麦茶を飲んだ。
「今は好きな人いないの。男の人?女の人?」
んー、とうたが顎に手を当てて考えるそぶりを見せる。
「中性の人、かな」
ルクが思わずうたを見つめる。顔が赤くなるのを実感する。
「ルクのことだと思った?」
うたがいたずらっぽい笑みを浮かべる。
「やめなよそういうの」
「ルクのことだよ」
「は?え?」
狼狽するルクを見てうたが肩を震わせて笑いをこらえている。しかしすぐにこらえきれずに笑いだす。
「ふふっ…あははは」
「ちょっとさめくん!」
ひとしきり笑った後、疲れたのか肩に頭を預けてくる。
「じゃあルクの今の好きな人は?男の子?女の子?お姉さんが相談に乗るよ?」
急にお姉さんを名乗るうたに突っ込むべきか少し迷いつつ答える。
「年下の女の人かな」
「へー」
「中性の人じゃなくてがっかりした?」
仕返しとばかりにルクが尋ねる。
「別にー。どんな人?」
「今俺の肩に頭乗せてる」
「…ボクってルクから見たら女の子なの?」
不服そうな上目遣い。
「自分でお姉さんって言ったくせに」
「ルクのくせに生意気じゃん」
「先にからかってきたさめくんが悪いよ」
うたは返事をせずルクの肩に体重を預けている。ルクもこれ以上話を振る気になれずに静かにうたの体温を受け止めていた。触れ合っている左腕が熱を帯びているように感じられる。少しだけ心拍数が上がる。
(俺が自分もさめくんも女の子だって思えたら、友達だって割り切れるのかな。もしくは俺が男で、さめくんが女だったら。あるいはそんなの関係ないって言いきれる強さがあったら)
いつの間にか眠っているうたの顔を見る。先ほど見た藍色の髪の少女と、楽しそうに笑ううたを思い出す。あんな風に抱きつくのは今は無理だ。ルクにとっては肩に寄り掛かるうたの眠りを妨げないように、動かないでいるのが精いっぱいだった。