「妄想(2)」
「妄想(2)」
民法債権各論の講義が終わった昼休み、僕たち国際政治学ゼミの演習グループメンバー数人は、食堂に集まっていた。間近に迫ったグループ報告の準備をするにあたり、今週末は各自で文献等を調査して資料を作成することとなっており、その分担を決めるためである。あらかた進め方と担当が決まり、解散しようとしたところ、白いTシャツにジーンズ、腰巻のネルシャツというラフな格好をしたメンバーの女性が、おずおずと話し出した。
「ごめん、やっぱり今週末はどうしても都合が悪くて…」
そう申し訳なさそうに言う彼女は、大学に通う傍ら、「アイドル」の仕事をしている。僕はあまり詳しくはないが、厳密にいうと、アニメのアイドルのキャラクターの声優となり、自身も声優ユニットの一員として歌やダンスなどのパフォーマンスをしている、ということになるらしい。そのことを本人の口から直接聞いたことはなかったが、僕たちの間では周知の事実となっている。今週末の都合が悪いというのも、おそらく出演するライブか何かがあるのだろうと、他のメンバーも察しているようだ。珍しい境遇だとは思うが、さすがに他者の事情に無遠慮に立ち入るほど子供でもなく、また学生が学業以外の用事を抱えていることもお互い様なので、ひとまず了承し、彼女の担当する予定だったセクションをどうするか決めることとなった。
「じゃあ、俺やろうか?俺の担当部分と関連するところでもあるし、むしろその方がやりやすいかもしれない」
「…ほんまに?ええの?」
ぶっきらぼうに言い放った僕を、彼女は申し訳なさそうに見上げる。綺麗なミディアムショートの黒髪とやや丸みを帯びた愛らしい顔立ちに、どきりとしてしまう。大学では物静かな印象の彼女だが、間近でみた、そのぱちりとした目の奥からは、強さと気高さが認められ、「アイドル」であるということをあらためて実感させられる。そして、思わず出たのであろう関西弁が、とても可愛らしい。あまり気を使わせるのも悪いので、冗談っぽく返すことにした。
「ええの。全然気にしないで。まあ今度俺が授業さぼるときには埋め合わせでノート貸してよ」
「でも、さすがに丸投げは申し訳ないと思うんだけど…」
「それなら、俺が資料の案作ったら、いったん確認してもらって、意見とかくれる?そうだな…、一応Skypeで説明したいから、土曜の夜30分だけ時間ないかな?」
「うん、夜なら少しは大丈夫」
「ありがとう。それじゃ時間出来たらメールちょうだい。資料は作ったらSkyDriveにアップしとくわ」
「ありがとう。ほんま、ごめんな」
…
食堂を後にした僕はさっそく図書館に向かい、蔵書を調べた。どうやら、付属の社会科学系図書館にある蔵書だけでは不十分で、別のキャンパスにある人文科学系図書館でも調べる必要がありそうだ。やれやれだぜ、とつぶやき、原付バイクに乗って別キャンパスに向かった。普段はインターネットで検索できる論文を適当に引用してお茶を濁しがちな僕だが、今回の熱心な取り組みは、当該分野における自身の知的好奇心及び学問的向上心に基づくものであり、断じて彼女にいい所をみせようとしているわけではない…はずである。
…
「…なるほどね。意見ありがとう。それじゃあ俺、資料修正して、週明けゼミに持っていくわ」
「ううん、こっちこそ本当にありがとう。また借りは返さないと。それにしても、いつもこんなにたくさん調べて資料作ってるの?すごいね」
「ま、まあね。でも今回はたまたま時間があって、興味のある分野だったから…」
約束通り、土曜の夜、音声とチャットのみSkypeをつないだ僕たちは、資料についてやりとりをしていた。あくまでゼミの準備のために通話をしているだけだと自分に言い聞かせつつ、要件が済んだので通話を終了しようとしたところ、遠くから2人の女の子らしき声が聞こえてきた。
(おーい!もうおわったー!?わたしとおふろいっしょにはいってよー!)
(あ!こら!まだ取り込み中なんだから部屋に入っちゃだめだって!)
(えー!けち!いいじゃん!)
(ねー!まだだめだよね!?)
「ん?誰か居るの?」
「あーもう、あいつらあ…」
席を立った彼女は、遠くの声の主たちを追い払ったのか、ほどなくして戻ってきた。
「ほんまごめんな。騒がしくて」
「いや、全然いいんだけど…。えーと…、聞いていいのかな、もしかして、同じ「アイドル」のユニットの子?」
「…うん、実は今週末はライブがあって、ホテルに泊まってて」
「そうなんだ。おつかれさま。忙しいのに付き合わせてごめんね」
「いやいや、代わりに資料作ってくれて、これくらいは手伝わないとって思ってるから」
「ちなみにすごい元気そうな子達だったね。いつもあんな感じなの?」
一人の声はどこかで聞いたことがあるような気がしたが、気のせいだろう。
「せやねん。一人はリーダーなんだけど、やたら甘えてきて。最初は喧嘩してたんだけど…。でも彼女の歌はすごくて。あんなにも感情を乗せて人の心を打つ歌い手を私は知らない。それに自分のダメな所をしっかり理解した上で、人のことをちゃんと見て頑張れる努力家。なんだかんだ良いリーダーだと思う」
「もう一人はどんな子?」
「見た目は幼いんだけど、すごくしっかり者。いつもその場の状況を読んで、なんでも器用にこなして、私には真似できないところ、たくさんある。正直何度も嫉妬した。もし、私が居なくなったら、センターを任せられるのは彼女しかいない。あっ、私センターっていう立ち位置なんだけど…」
「本当にユニットのメンバーのことが好きなんだね」
「うん、他にもあと4人居るんだけど、本当にこのメンバーで良かったと思ってる。この7人は、最強なの。」
そう力強く語る彼女は、普段の大学で接している彼女とは別人に思えた。仲間と共に「アイドル」という過酷な仕事に日々ぶつかっている彼女と、モラトリアムを満喫している僕とでは、別世界の人間なのだとあらためて実感する。
「それにしても、大学に通いながら、その仕事をしてるって、すごいね」
「まあ、でもみんなもバイトとかサークルとかで忙しいだろうし、私だけ特別ってわけじゃないと思う」
「いや、俺が思うのは…。この学部で学ぶことって、条文、判例、法解釈、それに様々な法理論や政治理論とか、とにかく論理性や客観性が強く追及される分野だと思う。しかも生半可な学習では、試験もパスできないし、法学士としての素養、すなわちリーガルマインドは身につかない。それに対して、アイドルであれ役者であれ、芸事って、技術だけじゃなくて、すごく感性や感情が大事になる分野だと思う。俺はあまり詳しくないけど、きっと生半可なパフォーマンスでは人の心を動かすことなんてできないだろう。俺には両者は対極にある分野のように思う。それが両立出来ているっていうことが、凄すぎる。いったいどういう状態なのか、想像がつかない」
思わず、気になったことをべらべら話してしまった。引かれたかもしれない。でもどうしても聞いてみたかった。後に知ることだが、彼女は自身が演じるだけでなく、物語を紡ぐ才覚にも恵まれているようなので、なおのことである。
「うーん、そういう視点で考えたことはないけど…、勉強するのが好きっていうのはあるかも。昔からノートに気になったことをまとめるのが好きで、その延長でこの学部に居るのかもしれない。それこそ、例えばこないだのアメリカ情勢の講義とか興味深かったし、そういう自分の興味のあることとか、やりたいこととかに正直に生きて来たから、結果、色んなことをやってるんだと思う。私にとってはどれも楽しくて、全力で頑張りたいと思うことばっかり。ただ、真面目過ぎるってよく言われちゃうから、そこは経験積んで、柔軟にいろんな私を出していきたいかな」
「そっかあ…。今日は色々話できてよかった。ライブ、頑張ってね。俺応援してるから」
「ありがとう。それじゃまた大学で会ったらよろしくね」
通話を切り、その余韻に浸る。才覚と仲間に恵まれ、自分の道を強い意思で進む彼女。なかなか自分の道を決めきれず、漠然とした不安を抱えたまま、何となく大学に通っている僕とは、やはり住む世界が違う。でも、そんな彼女に敬意を払うと共に、影ながら応援することは出来るかもしれないと思った。
…
その日以降、彼女はますます「アイドル」の活動が忙しくなり、また僕自身も就職活動が本格化して行き、大学で会うことが少なくなっていった。結局、講義のノートを貸してくれることもないまま、僕たちは徐々に疎遠になっていった。
…
時が経ち、怱怱たる日々を過ごす社会人の僕は、今日は年に一度の特別な日であることを思い出す。スマートフォンでSNSを開き、ハッシュタグをつけて書き込むことにしよう。彼女が、世の中の多くの人たちを、自分の周りの身近な人を、そして自分自身を、幸せにすることを願って。
『お誕生日おめでとうございます!これからも多方面で益々ご活躍されますように!#…』