「誕生日おめでとう」は本当に必要か
おめでとう、とは?
「合格おめでとう!」
頑張って頑張って勉強してきて、やっと掴んだ合格。
お祝いしてくれたら素直にそれは嬉しい。
分かります。
「結婚おめでとう!」
最愛のパートナーと結ばれて幸せを掴んだ、お祝いしてくれて嬉しい。
それも分かります、私は結婚してないですけど分かります、納得。
「誕生日おめでとう!」
これは、無事に365日間生き抜いたことに対してのお祝いでしょうか、頑張って(?)生きたことに対してでしょうか、それとも生まれてきたことに対する改めての祝福でしょうか。
私は少なくとも、そんなことを考えて「誕生日おめでとう」と言ったことはなかったですし、誰かにそう言われたらもちろん嬉しくないわけではないのですけど、おめでとうと祝ってもらう理由にどこか納得がいかないというか。気持ちがちょっと追いついていない気になるのです。
誕生日の再定義
その"納得のいかなさ"を紐解いてみるとたぶん、私は自分の意思でこの世に生まれてきたわけではないですし、これまでの人生を、この365日を、自分だけの力で生きてきたとはもちろん思っていません。
だから、ただ誕生日がきた、という理由だけで「おめでとう」と祝われることがどうにも腑に落ちないのだと思います。
自分の身の回りの誰かが誕生日を迎えたとき、機械的に「おめでとう!」と言うことは、まあ別にできます。けど、そこに本当の意味での祝福の気持ちが存在していない『空っぽのおめでとう』であることが多い、というか正直ほとんどな気がしています。
これは私だけではなくて、実はけっこう多くの人がそうなのではないかと、これまで特に気にしていなかっただけでよくよく考えてみると『空っぽのおめでとう』をつい言ってしまっている人は多いのではないかと思っています。違ったらごめんなさい。
そんな「誕生日おめでとう」だったら、なくなってしまっていいじゃないか、と私は思うのです。
「せっかくの誕生記念日だし、いい日になるといいね」これくらいだったらぎりぎりちょうどいい表現かもしれません。
そしてどちらかというと、自分が誕生日を迎えたときには、この365日、自分を支えてくれた家族やパートナーや友人や会社の人に感謝をする「誕生日ありがとう」の方が、とってもしっくりきます。
『空っぽのおめでとう』なんかよりも、『中身のあるありがとう』が飛び交う世界の方が、私はよっぽど素敵だと思います。
みなさん、今年の誕生日には感謝をしてみてはいかがですか。
読んでくれてありがとう。
aso
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